とても小さな世界(2)
もうちょっと早くに出す予定だったのですが、思うところがあり少し書き足していました。
前回はこっち。
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ふいに、唇を奪われた。そのままぼくは後頭部をとん、と少しだけ後ろに打ち付ける。柔らかい感触とまるでボールでも抱え込むかのようにぼくの首の後ろに腕を絡める。伏し目がちにぼくの唇を奪う女を眺める。瞬間的に誰か分からない。オレンジ色の世界の中で目の前の黒い影だけが、ぼくを遮っている。遠くから女の声がする。キンキンするような声ではないからサヤカではないと思う。視界がはっきりしてくる。目を見る。とろんとした目をして、チハルはぼくに口づけを交わしていた。息が苦しくなるほどに。
「そんな寂しい顔しないで」
「寂しくなんかないよ」
「嘘。目が嘘ついてる」
「チハルは」
「寂しい」
言い終わるや否や、既にチハルはぼくのパンツに手をかけていて、下着まで脱がしていた。チハルはキマり始めると誰彼構わず襲い掛かってはキスを求める。あっちこっちと性感帯を触りながら股間がチハルの左手に包み込まれていく。口づけを交わしながら、次第にむずがゆかったそこが硬くなる。次第にぼくも優しくチハルを撫ぜていく。ただただ、ゆだねるがままに。ゴムどこにやったっけ、と思いながらサヤカもミハルもリカもタクヤも、タツも。
「ファミリー」たちのただひたすらの快楽を追い求めているさまはまるで動物か、あるいはそれ以下の下等生物か。とにかく、今そこに見えている快楽をただひたすらにむさぼりながら、ぼくはただただ食べ残されたジャンクフードのように快楽へと溺れていく。バタンとドアが開いて、ヨシヤが帰ってきたのを視界に見た気がした。黒い虫が壁を伝っていくのも眺めながら。
動物のように、チハルがぼくの体をむさぼる中で、ふいにナツミの顔がチハルと重なる。彼女はどんなセックスをするんだろうか、なんて思いながらもただひたすらにチハルの唇を吸い寄せる。チハルとぼくの目が合う。
「やっとこっちを見てくれた」
「なんでこんなことするのさ」
「タツさん、たまに乱暴なの。焦っているみたい」
「何に」
「きっと、家族が減っているのが悲しいのね」
「チハルは? 寂しくないの?」
「寂しい。シュウさんまでいなくなったら」
幻覚なのか、チハルがナツミに見えてぼくは強くチハルの唇を吸い寄せる。
「やだ、すごい強い」
「そうさせたのはどっち?」
とろんとした目で笑ってから、何も言わないチハル。気が付いたらぼくはブーツを履いている。昨日履かされた白いそれ。誰が履かせた。サイズ合ってないぞ。それなのにおかしくて、ケタケタと笑いながらまた強く唇を吸い寄せて、それから気が付いているとまた、ペニスがそそり立つ。近くにあった椅子に座りながら、コツコツとブーツの音を鳴らしてセックスする。切なそうな顔をしているチハルを見てさらに欲情する。腰でチハルの中を押し上げる。瞬間的な愛おしさと快楽がさらに世界が倒錯していく。どろどろに溶けているような世界の中で、チハルは体を仰け反らせている。
タツは今日初めてハシシを体験した女とセックスしている。インターンで入れた子だって言っていたのを思い出す。オレンジ色の照明が何かで滲むように溶けて行くように感じていく。転がった世界から裸体の世界をただ眺め続け、それから目を閉じる。オレンジ色に染まった部屋の中に散らばっているジャンクフードをガサゴソと何かが漁っている。愛もなく食らっているぼくと同じように。違うのは生きていくために必要か、そうでないか。遠くに綺麗な夜空が見える。ラッセンの絵は青々としているけれど、真っ黒な星空の絵なんて誰も見たことがない。このままどこまでも遠くへと飛んでいけたらどれだけいいのだろうか。星空とぼくが重なり合って行き、やがて果てる。意識が遠のいていく中で、ぼくはこの部屋に相応しくないものをいくつも想像していく。ぼくはひんやりとした床に、身体を預けていく。夜だかのように、高く高く跳んで星になりたいのに。
チハルはぼくに囁く。
「シュウさんはいつも寂しそう。どうしてそんなに寂しそうなの」
「心を満たす方法を知らないんだよ」
「そんなの簡単なのに」
「どうやるのさ」
「さっきみたいにぎゅーってすれば、満たされるよ」
「満たしてくれる?」
まどろみの中で、タツが見える。タツとぼくを結んだ線の間にはテーブルがあって、また山のように開けられたジャンクフードが転がっている。チハルは何も言わないで、頷く。向けるまなざしを変えないまま。ぎゅーってしてあげると、さっきと同じ目で、チハルは笑う。愛があるかと言われたら、それは分からないけれど。
「なあ、プロジェクター忘れちゃったんだよ」と言われて起きたぼくは、まだ世界が少し回っている。そういえば、今日はタツたちの講演会を手伝う日だった、と思ってようやく視点が定まり始める。そういえば、タツはセミナー講師で恋愛のこと、コミュニティに関すること、友達に関することを語っているらしい。あれだけキメてほかの女と交わっていた男が何を話すのだろうか。そう思うとぼくはそのギャップにくすっと笑ってしまう。それにしても、昨日の夜は全員死んだ目をしてハシシを回して吸っていたな、とぼんやり思う。
そろそろシャワーも浴びて、いろいろと準備をしなければいけない時間だ。ちょうどいい。
「わかった。どこにある?」
「俺の部屋」
「了解。ピックアップしてすぐ向かうからちょっと待ってて」
「助かるわ」
電話がプツンと切れて、立ち上がろうとするとまたコツンと足音がした。左のふくらはぎがブラウンの色に包まれていて、つま先が丸い形をしている。またチハルが履かせたのかと思い、トロンとしたあの目を思い出す。昨日もまた、何の脈絡もなく唇を奪ってそれから交わった。愛のないセックスだということは分かっているのに、また。
タツと付き合っているはずの彼女は、どうしてあそこまで見境なくいろんな男をあさるのだろうと思う。ただ、そう言われるとぼくはタツと彼女が連れ立ってどこかへと出かけていく姿を目にしたことは無いと思う。少なくとも、ぼくが彼と彼女を知ってから、一度も。あの家の中で、タツはチハルを抱きしめている瞬間があるのだろうか、と思いながら。タツのセミナーを大きく助ける役割を果たしている。
左足をブラウンから解放するために、ふくらはぎの内側についたジッパーを下げる。また、少し股間がむずっと動こうとする。ただ、下ろし切ってからすぐさまシャワーを浴びに行ったので、本当に瞬間的なことだった。久しく着るスーツのことで頭がいっぱいで、それどころではなかったというのもあったけれど。プロジェクターはすぐに見つかって、リビングの床で横たわっていたブラウンのブーツを横目にぼくは家を出る。とにかく、少しばかり急がなければならないと思いながら。
休みの電車はなんだかのどかで、誰もせかせかしていないように見える。ただ、スーツを着ていたり、必死にパソコンを覗き込んでいる人たちもいて、そういう人たちはどこかせかせかしている。今日、ぼくもまたせかせかとした気分になっている。
電車はぼくを乗せて遠くへと進む。
こうしてみると、目をキラキラさせた受講者たちをだましているようにも思えて、笑えてくる。久しく着ていなかったスーツと革靴で自分の上と下を眺めながら、宗教家が何かの訓示を唱えているようでぼくはただ必死に笑いをこらえていた。PCやスマホに必死ににらめっことしているタクヤと、インターンの子にあれこれと指示を出しているリカ。何かを確認しながらきりっとした顔でタツに話しかけるチハル。
あんなにハシシに狂って、へらへらと笑い転げていたというのに、いざ人前に立てば外面さえよくなるのだから恐れ入る。ただ、その姿を見せてやったらどうなるだろうか。キラキラとした目、うっとりとした目。恋しているかのような目。何かを食い入るようにタツの話に聞き入っている者さえいるほどだ。その中で、たった一人だけ。まるで警戒しているように眺める目を見つける。ナツミだった。ただ、細めた目で何やら人の奥底を見分けているような。彼女だけは洗脳されまいとただ必死に抗っているようにも見える。
あれから何度かナツミのいるコーヒーショップに立ち寄ることがあった。雰囲気のいい店の中で、確かに愛想よくふるまっているのだけれど、その奥がわにはさらに隠している顔があるような気がして。いつも来てくれてありがとうございます、なんてイラストをつけながらメッセージをくれるのだけれど、これも果たして本音なのかどうか。ただの愛想笑いにしか見えなくて、だけれどそれを隠すことができないほど、透明で。きっと、彼女には踏み入れたらいけないんだろうと思いながら、彼女に視線を送り続けている。
宗教家の訓示は、いつだって同じようなことを説く。まるで革で作られた分厚く硬い表紙の本をパラリとめくり、気難しい表情で何やら授業でもやるかのように。そういえば、高校の授業をちゃんと聞いていた記憶がない。ここにいる人たちはきっと、ちゃんと授業を受ける人だったんだろう。あれ、そういえばタツは高校の授業をちゃんと聞いている人だったかな。きっと真逆の人間だったと思うんだけれど、いざ大人になるとどうして人は偉そうに何かを語りたがるのだろうか。
だから、笑いをこらえたままそれを聴いている。それ、一か月前も同じこと言って陶酔させてたじゃん、って思いながら。それから、マヒロはいなくなったんだったな、と思いだす。
ナツミは表情を消している。だからなのかちゃんと聞いていないのか、ぼんやり漂っているようにも見えた。それなのに、透き通っているかのように美しく見えるのは、彼女の危うさゆえか、それともぶれない芯のせいか。タツは陶酔している。まるで自分が世界の覇者であるかのように。タツは陶酔している。自分を信じてくれる人がこんなにもいる、と。タツは陶酔している。まるで初めてマリファナをキメた時のような気持ちになっている。陶酔は最大の麻薬だ。一度経験してしまえば、決して抜け出すことは出来ない。だからこそ、タツは拍手の中で陶酔している。
その後ろでチハルは作られた顔で微笑みながら、ただ拍手をしていた。いや、全員が作られた顔で、拍手をしていた。
スーツだったから全然わかりませんでした。帰り際ナツミはそう言って笑う。多くの人たちが次回のセミナーや定期講座への申し込みをしている中、ナツミはすたすたと帰ろうとしていたので、呼び止めた。ぼくの仕事はもう終わっているし、わざわざ居る理由もなかった。
気取った気分で近くの喫茶店に入り、落ち着きながらナツミは口を開いた。ひらりと避けるような口ぶりで。
「あなたも、彼らの一員なんですね」
皮肉めいたような、少し棘のあるような。目が笑っているように見えて、笑っていない。だから、意図的に視線を外した。
「うーん、どうだろう。ぼくはふらふら手伝っているだけだしな」
「だからあんなに所在なさげにしていたんですね」
「わかっちゃいました?」
「ええ」
目がほほ笑む。だけれど、その奥はぼくを見ようとしない。覗かれないように、光を消している。それから選ばないように、言葉を返される。
「だけれど、あなたも立派な家族に見えましたよ」
「どうして?」
「うーん、なんとなく。そんなことを思いました。私、そういう勘が強いんです」
光が消えているのに、まるで透き通っているような目で。
「何がそんなに似ていた?」
「死んだ目。失礼かもしれないですけれどね」
「結構ずけずけ思ったことを言うんだね」
きれいで透き通った目で、ぼくを見つめる。確かにその通りだ。あそこにあるのは外へと見せつけられる強固な絆ではなく、内側でただ傷口を舐めあっているだけのこと。そこにあるのは家族ではなく、ただとどまりたいだけの濁った水。
「それなのに、あなたは一人で澄ました顔をしているじゃないですか」
「そう見えちゃったか」
「格好つけないでいいですよ」
「別にそんなつもりじゃないんだけどな」
「だったら、まずは心のままに進んでみてはどうですか」
それがわかんないんだよ。とこぼしたくなる。こぼせばどれだけ楽だろう。だけれど、それをこぼせば小さな亀裂が入りそうな気がして、ぼくは押し黙ってしまう。それから「そうだね」としか返さなかった。もうきっと、これでナツミとこうして会うことはなくなるだろうと思う。
「大丈夫です。最初が怖いだけですから」
気休めか、本心か。
1時間経っただろうか。それから近くの駅で別れる。電車に乗って帰ろうとしていると、そのまま駆け足でナツミは駆けていく。そこにいたのは優しそうな男。先ほどとは違って嬉しそうな顔と、目に美しい光を込めて会話している。やっぱりそうだ。ぼくにはしょせん合わない人だったんだ。分かってはいたんだ。そうなる、ということを。
その落胆とあきらめでぼくはまた狭い世界へと閉じこもりたくなる。誰かを好きになれるのならば、いくらだってなっている。ただ、伝え方がわからない。そして伝えても拒まれ続けてしまう。いつか見つかる、と信じていてもいつも見つからない。見えない。どこにそれはあるんだ。どこにぼくの答えはあるんだ。その繰り返しにぼくはまた今日も逃げ込む。
ふさぎ込みたくなってしまって。斜に構えていたつもりでも、達観していたつもりでもないけれど、ただ傷つくことだけを恐れて、彼らを下に見て。結局ぼくはただ逃げていただけなのか。自分の愚かさに、笑う。結局、自分を見れていないのは、自分じゃないか。
まだ、リビングには誰も戻っては来ていない。そう思っていた。その時、同じように目から光を消していたヨシヤがぼくに右手を上げた。ああ、そういえばヨシヤもいなくなるんだったな。右手を上げ返して、消えていく彼を見送った。こみあげてくる笑いを抑えられなくなりながら。
瓶の中に残っていたバーボンをラッパ飲みする。アルコールの強烈さに顔を歪めて、それでもまだバーボンを口に含む。そうでもしないとやっていられない。笑っていたい。ちくしょう、笑っていないとおかしくなりそうだ。冷めて硬くなったテイクアウトのピザを払いのけて、黒い虫がたかっているポテチをこぼしてむさぼるように酒を飲む。グワンと世界が回りながら、その中でぼくは次第にせりあがるものを感じる。ドアが開く音が聴こえても、ぼくはそのとろけた世界の中で次第にボロボロと心がこぼれていく。知っていた。自分が逃げていたことを。知っていた。こんなところに至って埒が明かないことを。
知っていた。ぼくは何も変わってはいないことを。
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