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されど採血

「この人の血管大丈夫そうやし、採血してみる?」と促された。

ぎょ。
なにせ10年以上採血なんかしていないし、数日前にナースを頼まれた時も採血・ワクチンの業務はしなくていいと聞かされていた。私に心の準備は微塵もなかった。しかも「採血」には苦い過去があった。

昔、看護学生時代の研修で診療所に行ったことがある。その頃、学校でも採血の練習をしていたが、ゴムで作られた模型の腕で試すものだった。もちろん「血」はない。
その診療所の医師は「いいから俺の腕を刺してみろ」と言って、腕を差し出してくれた。血管もくっきり、はっきり盛り上がっていて、学生という名の素人でも失敗しようがないと思った。でも有難いような、遠慮したいような気持ち。周りの看護師さんたちに「やってみなよ」と言われたので、一度つばを呑んで挑戦することに決めた。初めて人間に針を刺す時が来た。しかも医者の腕。何もかもプレッシャー、学校で習った手技なんて頭から完全に抜けていた。怖い。
採血の手順はこうだ。

「採血しますね」の声かけ
→アルコール消毒は肌に大丈夫か確認
→左右の腕を見比べて血管の状況を確認
→ターゲットの血管を決定
→駆血帯を巻く(血管を浮き上がらせるために腕に縛るゴムの紐)
→アルコール綿で血管周りの皮膚を消毒
→注射針のついたシリンジを握る
→左手で血管の走行を確認
→針の角度を決める
→「チクッとします」の声かけ
→ブスっとためらいなくいく
→「大丈夫ですか」の声かけ
→適量採血
→駆血帯を外す
→アル綿で刺した部分を抑えながら針を抜く
→針を抜いた後の皮膚をグッと圧迫
→絆創膏で貼る
→「内出血しないように5分抑えてください」と言う

複雑ではないが、習いたての学生が一連の流れをスムーズに行うのは無茶な話。こんなことは経験で身に付くものだ。私が現場を離れて10年経ってもこの手技を覚えているのは、この時とんでもない失敗をしたからだ。

私は「俺の腕」を刺した後、駆血帯を外さずに針を抜いてしまったのだ。それが何を意味するか…。目の前で腕から血が噴き出してきたのだ。駆血帯で腕にうっ血させた血が針穴から噴射。私の右手には血が吸われたシリンジ、針もついていたが、びっくりして注射器を振り上げてましっていた。腕を貸してくれた医師の白衣上下、私の白衣も噴射で血まみれだ。その時は何が起こったか全く理解できなかった。血管が太すぎて溢れ出てきたのかと思った。もちろんそうではなく、私が駆血帯を外し忘れただけだった。

あれから約25年、こんな人だとは知りもしない先輩ナースは私に採血をすすめてくる。「やってみなよ」の恐怖。でも迷う暇はなかった。とにかく目の前に私たちナースのやりとりを見ている患者さんがいる。私が自信なさげに対応したら、患者さんが恐怖だろう。考える時間もないので本日10年以上ぶりにチャレンジすることにした。

70代女性。一見、血管が浮き出ているように見えて、実は左右にコロコロ転がるタイプの血管だった。しかも右手に握りしめている注射器の針と同じくらいの細さ。角度を決めないと、血管を突き抜けて内出血するだろう。
とにかく転がろうとする血管を2本の指先で挟み上からも抑えて固定する。そして、ひかえめに浅く針を挿入。逆血と言って、血管に針が入ると、返り血のように注射器に吸い込まれてくる。これを見たら、半分成功と言える。いざ、ぶすっと。「よし、逆血あり」血管が細いので、血が戻ってくるスピードはものすごく遅いが、1ml、2mlと確実に増えている。ところが5mlあたりで止まってしまい注射器で吸っても量が増えることがなくなった。今回は検査項目により8mlほしいと思っていたので、焦った。「やってみなよ」の先輩は、カルテを持ってせわしなく動いている。しかも、焦っているせいで先輩の名前も出てこないので呼べない。
目の前には逃げられない現実。患者さんは「痛くないよ」と落ち着いておられたので救われたが、明らかに量が足りず失敗だと確信。もう、無理と判断して一度針を抜いて採れた分量で検査をまかなおうと思った。そしてその注射器を別の真空管検査容器にさし、血液を移そうと思ったが遅かった。その時点で既に血が固まってしまっていた。
そこに先輩がのぞきにきて、私は全面降伏、全面撤退でしょぼしょぼと後ずさり。
後処理はすべて先輩におまかせした。

その後先輩がこそっと囁いてきた「このまま失敗で帰すわけにいかん」。
「え、もういいのに」と思ったけれど、目の前には「俺の腕」ばりの立派な血管を持つ80代男性。遠目でチラリと確認した私は、今度は確実にしとめる自信はあった。血管が立派すぎると逆噴射の恐怖はつきまとうが、そこは苦い経験から学びを得て、無事に成功。

ここまでヘボヘボな採血歴を書いてきたが、実は大学病院の採血室で勤務してたことがある。毎日数十人の血管と睨み合って、向こうの様子を伺いながら、動きを止めて、エイっと仕留める。無事、必要な量の血を獲得した時には、勝負に勝ったような爽快な気分になっていた。

採血は非常に重要な検査であり、これによって病名の診断、検査の方向性が決まると言っても過言ではい。患者さんのメンタルのためにも失敗は許されないし、一度で確実に終わらすことが重要になってくる。

「やってみる?」がまた私の採血魂ストーリーを呼び起こした。


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