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【本文前のお断り】

 私はいわゆる「見える障害」と「見えない障害」の区別を理解している(なぜなら、自らが障害者であるため 物心ついた頃から障害や障害者について関心が強かったり、また、昔市役所で数年 障害福祉を担当していたりするので)。

 だから、ここに書くのはあくまで私観というか… 私自身はこう考える。ってだけの、ただの備忘録である(基本的に note すべてがそうだけれど)。


 以下、本文。

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 私には脳内で密かに「エスパー」と呼ぶ人がいる。これは特定の人物ではないので、「人」というよりは「ある特性を持った人々」という方が適切だと思われる。その特性とは 知らない人に関して その人を見ただけにも関わらず、時折次のように呟くことである。
















「あの人は障害者だ。」


 まず、何の情報もない全くの他人について 障害の有無を瞬時に閃くだけでも驚きだが、同じエスパーでも能力が優れると 障害の種類や診断名まで察知し、さらには生育歴や家族構成、現在の就労や生活の状況をさえ把握する者も多い。そして、極めて秀でた力を持ったのならば、あろうことか、その彼/彼女の未来をすら予知するレアケースも確認されている。

(繰り返すが、知らない人を見ただけにも関わらず、だ。←ここ重要!)



 けれど。

 けれど、私は考える。

 『あらゆる障害は目に見えない。』



 これは障害とは何かという意味付けにもよるが…

 私は個人的に障害を「当事者を生活不適応たらしめる相対的な状況」と定義している。

 平たく言い換えれば、障害 =「障害当事者がそれにより生活上/仕事上苦しみ、当事者を生活できなくする状況」である。

 さらに易しくいうのならば、「当事者が生活や仕事をするうえで苦しむこと/困難」そのものが障害だという考えを持つ。

(詳しくは 2020年 4月 8日付の note「私の障害観:障害とは何か。障害者とは何か。」 を参照されたい。)


 仮に上のような視座に立つとき、一切の障害は目に見えない。すなわち、人を見ただけでは その人が障害者か否かを判別できないし、ましてや、彼/彼女の障害がどのようなものなのかなど理解し得ない。目で捉える容姿、あるいは視覚情報によってのみでは 人の生活とその苦しみを知りようがないのだ。

 例えば、君が普段よく行く場所で 名前も知らない誰かを視界に入れたとしよう。そのとき、その容貌や雰囲気、その場の支援用具や支援者を捉えることはできるだろう。

 しかし、君が何をどのように認識するかに関わらず、その瞳が切り取るのは その人の生活のうちのほんの一瞬に過ぎないのではないか。そのいわば、たった一枚の写真だけを拠り所として、人の暮らしと困難をどうやってわかろうか。


 最後に 他者の障害を本当に理解し得るためにはきっと、相応のひた向きに長い時間を費やして 当事者の生活とともにあるか、あるいは 同様に彼/彼女の言葉を聴き続けるかより他にない。


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補足 [ 診断の可否について ]

 本文のものとは別の医学的な意味のそれについて、障害の診断ができる人は当事者自身を診察した医師のみである。


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P.S.

私の脳のASD/ADD特性

①集中をコントロールできない。
②今 見ているものしか認識できない。
③関心のあることしかできない。

 障害による自身の生活上/仕事上の困難のおおよそすべては、これらの脳特性を1~3つ組み合わせることにより 仕組みを説明できる。


【 お し ま い 】





私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。