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 やめてほしい。

 障害や障害者について話す度、何の条件もなしに「障害者=不自由」という前提を設けることを。

 メディアでこの等式を耳にすると、そのあまりの不合理さにいつも不快で堪らない。「足が不自由」だの「眼が不自由」だのと好き放題にいうけれども、不自由かどうかは決して障害者であるかではなく、結局のところ、すべて場合によるのである。


 そう述べるのも、初めに「自由」という言葉は2つの意味を持つ。(以下、広辞苑第六版より)

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じ-ゆう【自由】

①心のままであること。思う通り。自在。古くは勝手気ままの意に用いた。「━な選択」「━にあやつる」

②(freedom ; liberty)
 一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。
 自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。

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 そして、自由の定義が両者のいずれにしろ、「障害者=不自由」などという無条件の前提は成立し得ないと私は考える。


 まず、①では自由か否かは場合による。そして、②であってもケースバイケースだ。すなわち、自由とは断じて障害者という要素のみでは決定し得ないものなのだ。要するに、自由/不自由は複数の要素間の interaction (=相互作用) によって定まる「相対的なもの」なのである。

 大切なことだから、重ねて書こう。

 自由も不自由も相対的なものだ。

 ちなみに②の意味にあるように、人間に無条件的な絶対の自由はない。ここでいう「一定の前提条件」とは、例えば、皆いつか必ず死ぬこと等の人間である以上不可避な事柄かと思われる。詰まるところ、もしかすれば、人の自由はすべて「死」という前提の上に成立するのかもしれない。


 さて、話が冗長になったものの、何にせよ「障害者=不自由」という絶対的な前提は存在し得ない。

 最後に私はいわゆる障害者だが、割と自由な気がする。


【 お し ま い 】





私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。