なんで会社がデザインを上手に扱えないのか、を考えてみた
こんにちは。少しずつ記事の書き足し書き足しを1ヶ月以上続けていたら気づいたら1万6000文字を超える長文noteになってしまいました、。
目次を見ていただいて、興味なさそうな部分は適当に読み飛ばしてください。
自己紹介(このnoteに至るまで)
私は新卒で入社したIT電機メーカーにて、入社3年目の26歳からUI/UXデザイナーとしてのキャリアをスタートしました。
そして32歳になった年に転職し、そこではUI/UXと並行して広告部署の中でWebの制作やディレクションを行っていました。
そしてその会社も今年6月に退職。これから海外を放浪しながら1年ほどはゆるく今後のことを考える時間を過ごそうと考えています。
脱サラすることを「独立」と言うと自分の場合聞こえが良すぎてしまうのでニートを自称しているのですが、とにもかくにもニートになるまでの9年間は会社組織の中でデザインの仕事をしていました。
特に6月まで勤めていた日系IT企業はもともとデザイン部署がなかった会社で、その中でデザイナー第一号として中途採用されました。
旧態依然とした体制から抜けられない数万人の従業員を抱えた組織に新しい風を吹き込み、内部から新陳代謝を引き起こす起爆剤としての役割を期待されていた、
と勝手に思っているのですが、そんな輝かしいサクセスストーリーが生まれるほど甘くはありませんでした。
組織の中での自分の小ささを実感し、ただ仕事をこなすだけではデザインの価値を発揮させることはできないと考え、退職する10ヶ月ほど前から社内で小さなデザイン勉強会をはじめました。
20代の頃に読んだ野中郁次郎先生の知識創造企業に則り、自分の中にある暗黙知を形式知化させ、それを組織に投げ込むことで組織内の知識の血液循環が促され、組織に何かしらの新陳代謝が起こるのではないかと夢想していました。
会を始めた当初から密かに退職は心に決めていたので、全9回の勉強会は会社への最後のメッセージという意味も密かに込めたものでした。参加者は社外からも募り、そこから生まれた議論や人との交流が、少しずつ参加者を通して社内に伝播していくことを期待していました。
確かにある程度の手応えと反響はありました。勉強会の内容が一部の社員の方の中で共通言語となり、私のもとには社内でデザインに対しての相談や問い合わせが届くことも増えました。
とは言え結局はそれまでの話で、そんな簡単かつ短期間に自分が望むような組織全体へ変化をもたらすような結果が生まれるほど会社は甘くはありませんでした。
なんだかんだ大したことを成し遂げられなかったクソザコナメクジな自分なわけですが、デザイン組織のない会社にいたことで、デザインと縁遠い組織に所属している人たちがどんな意識や考え方を持っているのかというミクロな視点と、会社がデザインにどんなことを期待しているのか、そしてそれらがデザイナーとしての自分の考えとどれくらいのズレがあったのか、と言ったややマクロな視点での両方から様々な気づきを得ることができました。
そして2つの会社で9年間デザイナーを行ってきた経験としてたどり着いたのは、大きな組織の中での小さなデザインはあまりに無力である、というものです。
ここでは企業の内部にいた自分の視点から大企業が抱えるデザインの課題を整理し、私なりのデザインと会社の将来についてまとめさせていただこうと思います。
このnoteのアウトライン
まず前半の第一章、第二章では組織の視点から、プロダクト開発を例にデザインとの間にある課題を整理し、その解決策を考えます。
第三章ではデザインに視点を向け、組織内に存在するデザインの性質を2つに分類し、それらに組織はどう向き合えば良いのかについて議論を進めます。
第四章ではデザイナー自身にフォーカスをしぼり、AI全盛期におけるデザイナーの生存戦略と、それを踏まえたうえで組織はどのような個性を持ったデザイナーを今後採用すべきか、という話をできたらと考えています。
第一章:問題はどこだ
会社内で「デザインをしてほしい」という依頼を受ける場合におけるデザインという言葉の意味は、往々にして「意匠(画)を作ってほしい」と近いニュアンスを帯びています。
WebだろうとUIだろうと、その実は仕様の部分はほぼ固められた状態と切迫したスケジュールの中で、表層部分の色や画像やボタンをカッコいいビジュアルとしてまとめ上げることを第一に組織は求めてきます。
おそらくデザイナーを生業としている多くの人の周囲で飛び交う"デザイン"もこの意味で使われることがほとんどではないでしょうか。
もちろんデザイナーたちの反論として「自分たちは外見を整える絵描き屋じゃない!」というものがありますが、一方で外見を整える絵描きとしての仕事の需要が圧倒的に多く、未だに世の中のデザイン仕事と呼ばれるものの大きな割合がこの領域に該当していることも事実です。
そこには「中身は自分たちで作ってるから外見だけプロが整えてほしい」という見えない組織内の線引が存在しています。
そのような「外見を整えるデザイン」自体も重要な仕事であることには変わりないのですが、その役割はビジネスにおいては非常に従属的な立ち位置に追いやられがちです。
プロダクト開発の見えない階層構造
デジタルサービスやプロダクトづくりを例として考えてみます。
プロダクトが世の中に存在しつづけるための条件として、以下のようなものが思い浮かびます。
世の中に価値や意味があること
システムが正常に動作すること
人が扱うことができること
人に好ましく思われること
これらの条件のいずれも当てはまらないものが世の中に永く存在し続けることは考えづらいものです。
ただ、同時にこれらの条件はそれぞれが同列で存在しているわけではなく、マズローの欲求階層のような明確な階層構造があり、下の階層が成立しなければ上の階層が存在し得ないというピラミッド型の従属関係があると考えています。
まず当たり前ですが、そもそもとしてそのプロダクトが世の中に価値や意味があることが大前提です。
いくら優秀なエンジニアやデザイナーやディレクターを有するチームであっても、そもそも作ろうとしているプロダクトが世の中から全く求められていないものであるなら意味がありません。令和の時代に佐藤可士和がテレホンカードをデザインしたり、電話ボックスの設計を安藤忠雄が手掛けるようなものです。(話題性はあるかもしれませんが、それまででしょう)
そしてもし社会にとって価値があり、多くの人が求めているようなアイディアがあったとしても、それらシステムが動かなければ同様にプロダクトとしての成立はあり得ません。
例えばXのようなアイディアをジャック・ドーシーよりも先に思いついたとしても、リリースしたアプリが起動するたびにクラッシュするようでは、せっかく見つけた価値をユーザーに体験させることができません。
同様に、人がちゃんと扱えるようなUIやUXの設計の如何は「世の中に価値のあるものがきちんと動作する」ことが前提であり、それらが備わった上で初めてユーザーは「このプロダクトが好きかどうか」という階層でプロダクトと向き合うことになると考えます。
なぜ組織の中でデザインは無力なのか
ここでデザイナーの仕事を考えてみます。
デザイナーに求められる役割は主に「開発されたシステムをユーザーが使いやすく設計する(UI)」や、「ユーザーに愛されるための表現を行う(インタラクション、グラフィック)」という上位の階層になります。
つまり、「使い勝手」や「ユーザーの好み」のようなデザイナーが主に担う役割範囲は、それ以前のより下層にあるレイヤーにそもそもの生殺与奪を握られているという構造になっています。
私がいたようなデザイン組織のない(あるいは組織が非常に小さい)大企業においてはこのレイヤー間での部署ごとの役割分断がガッチリしており、デザイナーなどの上のレイヤーの担当者が基盤となる下のレイヤーに対して意見を述べることが難しい組織構造になっていました。というか、実態は基盤の価値検証の部分の議論が完了した状態でデザインを投げられるような仕事の流れになることが常でした。同様のことは多くのデザイナーの知人からも話を聞きます。
そして、要件通りにデザインは作ってはみても結局「ビジネス性が見込めずプロジェクトが解散になりました」なんて報告を受けることが何度も繰り返され、その度にデザイナーとしての自分の無力さを思い知らされました。
プロダクト開発で問題が発生した場合は下層にある基盤部分から検証し、原因究明を行うことが重要ではあるのですが、なぜかプロジェクトが進行している最中は「(表層の)デザインをカッコよくすれば解決する」という結論付けがされがちだったりします。
もしくは、もっと悪い場合は広報やマーケティングの問題と安易に決めつけて、自分たちのプロジェクト内に存在するガン細胞に目を向けようとしないケースもあります。
このような場面では、デザイナーも交えながら様々な角度からプロダクト自身が抱える根本問題を探索していくような試みが大切になってくるのですが、どうしても大きな組織においては部署間の縦割りが未だに強い上に、デザイン部署が非常に小さい場合においてはデザイナーの人数も限られているため一つのプロジェクトに対してそもそもデザイナーが深く関与できないという人材問題も絡んできます。
しかし真にプロジェクトの病原を潰し、成功に導くためにはチーム全体で下層のレイヤーの基盤をしっかりと作り込む姿勢が重要です。
そのためには、人材が限られた組織でも常にプロダクトの「価値や意味」について問い続け、見つけ続けていくようなチームづくりが必要となってきます。
強固な「価値の発見」があって初めて、後工程のデザイナーの仕事に意味が出てきます。
次からは、そのような中で組織はどのような動きをすべきか、という部分へ議論を進めていきたいと思います。
第二章:課題なき時代の探索型組織
かつてはお客様の課題を見つけて、それを解決することが価値となっていました。
組織はそれに向けて綿密な市場調査やアンケートなどを駆使して「まだ見ぬお客様の困りごと」をあぶり出し、それらの課題解決の方法の道を探りながら、さらにその中に自社ならではの独自性を織り込むことで競合優位性を生み出そうとしていました。
そうしてプロダクトの仕様が固まると実装を行い、テストをしてお客様へ納品します。こういった新規ビジネスの開発リレーは、自分がいたようなBtoB企業であれば1年くらい(早くても半年)のスパンで行うことが常でした。
これはいわゆる「ウォーターフォール型」と呼ばれる開発の進め方で、例えば既にリリースされたプロダクトの特定のバグ潰しや小さな機能追加などの小規模な開発に対しては有効ではあるのですが、大企業はこういった開発を新規事業開発などの0→1が求められる開発においても適用させようとします。
本来であれば、全く新規の事業開発においては、土台となる「価値の発掘」に多くのリソースを割くことが求められます。日々テクノロジーが進化しを続け、浸透していく現代においてはお客様が明確な課題を抱え続けているというような事態はほとんどありません。
昔であればお客様の中にある何かしら明確な不満や課題を抽出してそれらをじっくりとテクノロジーで解決することでビジネスになりました。
日々の書類の手入力業務に追われているオペレーターの方の負担はOCRで低減させることができたし、養殖する魚たちの温度管理を毎日目でやっている業者の方の負担はセンシング技術でモニタリングすることで楽にすることができました。
しかし、そういった「問題も解決策も明確な課題」というものは各社の企業努力によってどんどん解決されてしまい、さらにAI技術の進歩によって、ユーザー自らが自分たちの身の回りの不具合を解消できるようになってきました。
このような時代においては、計画主義的なウォーターフォール型の開発だと、リリースにこぎつけたときには当初設定した課題がなくなっていた、なんてことが起こります。
そのように最初に1点のテーマに固執して計画を進めるのではなく、「何が価値(ビジネス)になるのか?」ということを常に問いながら、小さな試作を繰り返し柔軟にプロジェクトの方向性自体を変えながら価値を探索し続ける体制を作らなければなりません。
終わらないウォーターフォールとアジャイル議論
こういった「小さな検証を繰り返しながら柔軟に正解を探っていく」開発行程を、一方通行的なウォーターフォールに対して「アジャイル開発」と言ったりもするのですが、実はこのウォーターフォールとアジャイルの議論は私が新卒で会社に入社する10年以上前からとっくに議論され尽くされた、プロダクト開発における非常に古典的な議論の一つだったりします。
つまり、こういった新規事業開発における価値探索のフェイズにおいてウォーターフォール的な開発がそぐわないことは、プロジェクトの若手担当者だけでなく、その上の管理職や役員レベルの人にとっても当然の事実であったりします。
それでも、自分の社会人生活の10年もの間、大企業はウォーターフォール型開発の一辺倒から抜け出すことができていません。
それはアジャイル開発が計画性を重んじる大企業風土にマッチしづらいという点にあるからではないかと考えました。
管理者視点の大企業型消極的ウォーターフォール
ウォーターフォール開発の場合は開発の初期段階に目標(ゴール)を掲げ、そこからリリースまでの開発工程を逆算しながらガッチリとした計画を立ち上げるため、組織としても各プロジェクトの評価が容易となります。
当初の計画と遅れてないか、掲げたゴールとの距離はどれくらいなのか、という部分を検証することでプロジェクトの遂行度合いや費用対効果を数値化しやすく、多様な業種に向けた多くのプロジェクトを同時に抱える大企業にとってはそれぞれのプロジェクトごとの比較がしやすいというメリットがあります。
数値化、スコア化の威力は大企業のような多様な役職が存在し、多くの社員からの合意を得なければ身動きが取れない組織構造の中では非常に都合が良く、むしろ数値化できなければ評価ができないという考え方すら存在しています。
一方でアジャイル開発は、ウォーターフォールが最初に掲げる明確な「ゴール」の存在にそもそも懐疑的であり、プロトタイピングなどでアイディアを小さく具現化しながら、検証を繰り返していく中で目標点を探っていこうとする開発手法です。
そのため、その不確実性さや進捗度合いの分かりづらさから管理する側の組織目線に立つと各プロジェクトへの評価が難しく、扱いづらいものとして捉えられているのではないかと考えます。
・・・と、このように書くとあたかも企業側が意識的にウォーターフォールとアジャイルとを区分けした上でウォーターフォールの手法を取り入れているようにも捉えられるようにも思われるかもしれないのですが、実態は開発の進め方に関して担当者レベルには決定権はなく、プロジェクト立ち上げ段階で「プロジェクトの目標」と「リリースまでの詳細な開発計画」を宣言しなければならないため、半強制的にウォーターフォール的な開発を推し進められる構造があります。
さらにその進捗を課長、部長、事業部長と様々な階層の管理職に対して定期的に報告をしなければならず、事業開発の時間のほとんどが「報告」と「報告のための実績(数字)づくり」に追われています。
そのような状況では、腰を据えて価値を探求する時間などが担当者にあるわけもなく、最初に(それも往々にしてトップダウンで)掲げられた目標を"絶対正義"として、そこに向かうための数字づくりで精一杯になっています。「これをやる」と目標が予め決められていて、プロジェクトが動き始めた瞬間にはすでに次の報告への数字づくりが始まってしまう。
このように管理する側の企業優先で、ユーザー目線に立った価値創出(目標発掘)を軽視するようなプロジェクト開発体制を私は大企業型消極的ウォーターフォールと勝手に呼んだり呼んでいなかったりします。
大企業特有の人材問題
大企業の硬直化のもう一つの原因は人材問題にあるようにも考えています。
内部に長年居た経験上強く感じるのが、新卒からずっと同じ会社にいる生え抜き社員の割合の高さです。
彼らはうらやましいほどの学歴を備えた上で厳しい就活競争に勝ち抜いた紛れもないエリートで、そういった人材が毎年数十人、数百人単位で入社している実態を考えれば企業側は人材的に大きなアドバンテージを持っているようにも見えます。
実際それは間違いではなく、当たり前ですが周りは私なんかよりもずっと優秀な人ばかりで、学習意欲や知識量は高水準な人材が多かったと感じています。
しかし、彼らも大企業の中に入ってしまえばその組織のルールに従わざるを得ません。開発は大企業的なウォーターフォール式の進め方をせざるを得ず、それ以外の開発プロセスを体験・実践する機会がないため、そもそもとしていくらアジャイル的な手法を取り入れようと思ってもそれを経験してきた人材が組織に存在しないという根深い問題があります。
また、個人レベルで「これはおかしいんじゃないか?」という疑問があれど、そんな声は太平洋の真ん中に墨汁を垂らすがごとく、一瞬のうちに組織の中で霧散してしまいます。
これは自分自身もまさしくそうだったのですが、そういった「不満はあるけどしょうがないよね」という個人の日々の小さな諦めがやがて組織の大きな空気を支配し、その環境でずっと身を置いてしまうと現状を変えようとすることに疲れ、次第に組織の運営に疑義を投げかけることも少なくなっていきます。
クソザコナメクジの自分を棚に上げるわけではないですが、それだけ組織環境の持つエネルギーは強力です。
そしてそういった日々のフラストレーションに耐えきれなくなった人は若くして退職してしまいます。こうしたかたちでさらに企業内の人材の属性の均質化がさらに進んでしまいます。
しかしここ数年でそういった空気感を打破すべく、中途採用に消極的だった古い日本企業も「ジョブ型採用」というバズワードの後押しも借りて、次々と社外から独自の専門性を有する人材を採用しはじめました。
私もその一環で採用された人間ではあったのですが、実際問題自分を含め周りを見渡してもやはり専門人材を数人採用したところで数万人が作り出している組織風土に対してインパクトを与えることは極めて難しいということを実感しました。
自分に限らず多くの中途社員が声を上げ、それぞれのできる限りのアクションは起こしてはいたのですが、1年もすると皆自分の中で折り合いをつけるか退職するかのいずれかの決断をしていました。これは自分のいた組織に限らず、多くの似た境遇の人から似たようなお話を伺っていたのでこれは日本企業が抱える慢性的な課題のようにも感じています。
ここで難しいのは、企業側は積極的に旧態依然としたものを優先させているのではなく、現状に課題を感じていて施策を講じているもののそれが徒労に終わっている、という点にあると思います。
この事態がまた大企業側に「やってみたけどダメだった」という結論を引き寄せ、組織を硬直化させていく要因となるような気がしてなりません。
組織変革を起こすには
ここまでは単なる組織に対しての文句みたいな感じだったのですが、ではこのような現状に対して今後大企業、あるいはそこに所属する個人はどんなことをしていけばよいのか、という自分なりの考え、というか声は上げてみたものの社内で実現できなかった話をしていこうと思います。
【組織の立場から】
短期間での大規模な採用の実施、もしくは外部組織ごと取り込む
ここまで述べてきた通り、大組織に対しては数名規模で変革を起こすということは現実的ではありません。しかし、特定の専門性に特化した人材を外部から一気に大量採用したり、外部組織ごと買い取ってしまって自組織内へ組み込むことで組織の新陳代謝を達成する事例はあります。
デザインの事例で言えば、例えば外部から一気にデザイナーの獲得に動いている近年のデジタル庁の採用活動や、世界的な巨大デザインファームのFjordを傘下に収めたAccentureなどがあります。実験的にアジャイル開発組織をトップダウンで作る
どこの大企業も、グリップしているだけでお金が入ってくるビジネスを複数持っており、それによって安定的な収益をあげられている場合がほとんどです。そういったすでに成熟し、比較的創造性を求められない段階のビジネスに対しては計画管理のしやすいウォーターフォール型開発が向いていますが、それらと0→1を求められる新規事業開発方法は分けて考えるべきです。
具体的には、安定したビジネスを並行で回しながら、その収益の一部でアジャイル的な手法で新規事業開発を行える自由度の高い組織体制をトップダウンで作るべきと考えます。評価基準もこれまでの計画主義的な成果型の評価でなく、ある程度の成果期限は設ける必要はあるかと思いますが、リサーチの実施やプロトタイピング、POCなどの試行回数をもとにしたプロセス重視型の評価をすべきであると考えます。
【個人の立場から】
ウォーターフォール型開発の中に小さなアジャイルを組み込む
プロジェクト全体としては大きな計画のもとに進めていくウォーターフォール型の開発を行っている場合であっても、その中で小さな単位でアジャイル的な動きをすることが可能です。例えばUIを検討する際に、FigmaやAdobeXDなどを使って簡単にプロトタイプを自分で作ってみて、チーム内や可能であればユーザーの方へ何度も当ててみながらテストをしてみると言った開発を行ってみる。そしてそれらを何度もテストして、その過程と成果を社内に広めていく。
個人的にも社内会議の中でもそういった動くものがあることによる食いつきの良さは感じており、こういった簡単なプロトタイピングをデザイナー以外でもラフに作れるようになることが重要に感じ、社内でFigma勉強会も行っていました。仲間をつくる
大きな組織の中での社員一人の声は弱いため、同じ志を持った人たちとチームを作って声を上げることが必要と感じました。
社内交流会のようなものがあれば積極的に参加してみたり、自分で勉強会などの場を作って、同志を募りながら少しずつ組織の中から変化をもたらすことが必要なように感じます。
第三章:劇薬のデザインと堆肥のデザイン
ここからは少し話題をデザインに向けていきたいと思います。
組織を運営していくうえで、広告、UI、リサーチ、プロトタイピング、あるいは組織づくりや文化形成など様々な領域でデザインという言葉が使われています。
ここでは、そういった昨今組織内に存在している多様なデザインを「劇薬」と「堆肥」という2つの言葉を使って以下のように分類して議論をしていこうと思います。
劇薬のデザイン
劇薬のデザインは、ビフォアアフターでの変化が明確で、短期的な効果が見えやすいものの、コンテンツの摩耗が早く、継続的な投資を必要とするものです。
例えば:
Webページの制作
LPの制作、運用
広告チラシの制作
などが挙げられます。
これらは数値化やスコア化がしやすく、効果測定が比較的簡単です。Webデザインなどでは、Google Analyticsを使えば改修前後の効果をすぐに確認できます。チラシなどのアナログな媒体でも、QRコードに計測用のタグを仕込むことで、デザインへの投資対効果を測定することができます。
一方で、これらの外注費用をいくら積んだところで、組織の内部への変容をもたらすものにはなり得ません。コーヒー飲料のWebページを作る際に、「深いコクのある味」を推しだすのか、「他社と比べた容量の差」を強調するのかは変更可能ですが、そのコーヒー飲料自体やそれらを作っている組織自体に何かしらの変化や蓄積をもたらすものではありません。
堆肥のデザイン
一方、堆肥のデザインは長期的には組織に変化をもたらす可能性がありますが、短期的な効果測定が難しいものです。
しかし、問題を抱えた組織においてはその内部に潜むガン細胞を取り除き、徐々に歪んだ骨格に体重をかけながら補正するような、あるいは長い期間をかけて少しずつ負荷をかけながらゆっくりと筋肉質な体質へ変化させていくような、そんな変化をもたらす存在が必要です。
私が会社にいて感じたのは、このタイプのデザインへの投資が、劇薬のデザインに比べてかなり少ないという現状でした。
例えば:
既存の枠組みを超えたチームデザイン(アジャイル開発の推進やプロトタイピングの実践・学習、外部人材の採用)
ロゴデザイン
サービスなどのネーミング
などがあるかと考えています。
チームづくりに関しては言うまでもないのですが、ロゴデザインやネーミングなども組織へ変化をもたらす可能性があるものと考えています。
ロゴデザインやネーミングの制作行程は究極のコンセプトメイキングそのものです。
そのサービスや組織が向かうべき姿と徹底的に向き合いながら情報を研ぎ澄まし、磨き上げて生み出すもので、それらを生み出す過程自体に強いチームの変容要因があるように感じています。
「いや、ロゴデザインなんてできないからこれも外注だよ」とも思われるかもしれませんが、外注できるのはあくまで、情報を図示化させる「表現」の部分であり、元々そのサービスに持っている想いや、向かうべき方向性などについては依頼する側がまとめなくてはなりません。場合によってはデザイナー側とディスカッションを重ねながら情報を精査していく可能性も出てきます。
そして論理的にも感情的にも納得のいくものができあがったとき、それはチームを結束させる旗印となり、それをユーザーにもじわじわと浸透していく必要があります。
そのため、ロゴを作って終わりではなく、その届け方や伝え方を常に考え、ロゴとサービス、ユーザーとの関係性を継続的に育てていかなければなりません。
ただし、これらは短期的な効果測定が難しいものです。新しい組織を立ち上げても、数ヶ月で目に見える効果が出るとは限りません。ロゴやネーミングも同様で、かけたコストの費用対効果はわかりにくいものです。
劇薬のループ
では、この2つのデザインを組織側(管理者側)の視点から見てみたいと思います。
こういった劇薬と堆肥のデザインの特性の違いを超単純化させたものが以下の図になります。
広告などの劇薬のデザインは瞬間最大風速的な効果は期待できるものの、コンテンツの摩耗が早く常に投資をし続けなければなりません。一方でデザインチームづくりといった堆肥のデザインは、場合によってはいくら投資をしても効果が見えづらいものですが、時間をかけて徐々にその効力が出てきます。
劇薬のデザインは複数のプロジェクトの管理を行う組織側にとっては比較検討などもしやすいため、デザインというとまずはこちらにばかり目がいきがちです。
また、これは担当者側にとっても都合が良く、広告を打つ場合でも過去の事例からおおよその費用対効果の見積もりができるため周囲への合意形成を図る際に非常に有効に働きます。
しかし、Webページの制作を例とすると以下の図のようなループを延々と続けることとなります。
何度Webページを作って売上を伸ばしても、組織自体への蓄積や変容をもたらすものではないため、広告のコストは下がりません。それでも効果が下がってくると、また劇薬に手を伸ばしてしまい、このループから抜け出せなくなってしまうのです。
劇薬と堆肥のハイブリッドを目指す
自分自身広告の部署にいたのもあって、劇薬のデザインに投下されるコストの大きさを日々隣で見てきました。しかしここまで広告にお金が投じられているのに、肝心のロゴデザインやサービスのネーミングなどにはあまりコストがかけられていないことにも気づきました。
ロゴやネーミングについては開発の部署の担当範囲になるためそもそも組織の違いもあるのですが、例えば入れ替えや更新が前提のWeb広告には毎月膨大なお金が投じられているのに、ずっと変わらず使い続けるはずのロゴや名前に対してはその何分の一の費用しかかけられていない現状を目の当たりにしてきました。
ただ、前述した通りでこのあたりにまとまったコストをかけることを答申しづらい組織内の問題もあったりもするのですが、理想的には2つのデザインに対してハイブリッドに投資を続け、以下のような瞬間的な売上を獲得しつつも組織としての自力もつけていくような成長線を描くことが必要に考えます。
そのためにはまず、組織は自分たちがかけているデザインコストについて、それぞれを劇薬と堆肥に区別してみて、その比率が適切になっているか、組織成長をもたらすデザインへの投資がきちんと行えているのかを確認していく必要があるように思います。
第四章:デザイナーのこれから
では、ここからは視点をデザイナー個人にフォーカスして、このような世の中において今後デザイナーはどうあるべきなのか、また組織はどのようなデザイナーを採用すればよいのかという点について自分なりの意見をまとめていきたいと思います。
強引かつ端的にまとめれば、「劇薬のデザイン」に特化したデザイナーの需要は今後どんどん減っていくことになる、と言えると思います。
Webや広告のデザインのような、依頼主の要望を従順に受け取るかたちで、もしくはデータ主導的に目的地を定めて、そこへ辿り着くためのデザインを仕立て上げるような仕事はAIの得意領域で、その量と品質に人間は勝つことができません。
近い将来、Google Analyticsの分析データを与えたらそこから適切な課題をAIが抽出して、状況に合ったいくつものランディングページデザインのパターンを提案し、さらに実装までしてしてくれるようなことが確実に可能となります。多分今現在でもそれと近いことができてしまっています。
このような「データを読み解いて、それに合わせて最適なデザインを制作する」という仕事を人間が行う意味はどんどん失われていくため、ここにばかり固執しているとデザイナーとしての市場価値がどんどん目減りしていきます。
AIが特定の専門領域の仕事をごっそり代替してしまう世の中において求められるのは、そういったAIを駆使しながら未知の領域を開拓するか、人間にしかできない分野に可能性を見つけていくかの2つの道にあると考えます。
その中でもデザイナーにおいてはAIの力でクリエイティブを拡張させるデザイナーか、組織文化をつくるリーダー型のデザイナーの市場価値が高まり続けていくのではないかなぁと考えています。そして採用する企業側もこういった人材をいかに囲い込めるかが重要になってくると思います。
AIの力でクリエイティブを拡張させるデザイナー
このデザイナーの特長は先端のテクノロジーに強い関心があり、かつ独自のセンスを持ったアーティスト気質の天才肌的なデザイナーです。
AIを単に既存のワークフローを効率化させるための道具としてではなく、自身の創作を新しい次元へ拡張させるツールとして、まだ誰も見たことのないようなデザインを生み出せるクリエイターです。
AIテクノロジーを世間と異なる切り口で解釈することができ、次世代のデザインの領域を切り開いていくようなフロンティア人材はどのような分野においても重宝される人材となると考えます。
組織文化をつくるリーダー型のデザイナー
また、チームをまとめ上げるコミュニケーション能力や調整力に長けたデザイナーの需要は(今現在も非常に高いものですが)今後さらに高まってくるものと考えられます。
自分たちが生み出そうとするサービスの本質を見抜き、それらに合わせた適切なチーム体制を組織し、ストーリーを構築し、一貫した考えのもとにロゴやサービス名など含め組織をディレクションできる、前述の堆肥のデザインの実践者とも呼ぶべき人材です。
幅広いデザイナーとしての経験値とビジネス感覚を持ち合わせ、組織内の課題にも向き合いながら組織改革にも積極的に動くことができるリーダータイプのデザイナーは将来的にも確実に組織に求められるものとなると考えます。
これら2つのタイプのデザイナーは今後も確実に市場価値が高まり続けていくため、場合によっては優秀なデザイナーから海外へ出ていってしまうような自体も考えられます。
採用する側の企業としても今後はデザイナーの過去の実績や扱えるソフトウェアの種類と言ったハードスキルよりも、そのデザインを生み出す過程でどのようにAIを活用しているか、と言った観点や、物事や組織の本質を見抜き、自ら行動できる行動力やコミュニケーション力と言ったソフトスキルをより重視する方向に切り替わっていくことが考えられます。
そして、デザイナーである私たちも、このように既存の仕事の枠組みが崩壊し、大きな地殻変動が起きている中で自分がどの分野を延ばし、どのようにデザイナーとして自分を成長させていくかと言ったプロデュース力が求められているようにも考えます。
おわりに:"デザイン"は死語になるのか
さて。大阪万博のテーマをご存知でしょうか。
"いのち輝く未来社会のデザイン"
この言葉を見たときに、妙にねばついた心のざわめきを感じた人は自分だけではないように感じています。その感情はどこから湧き上がってくるものだったのでしょうか。
ここ数年、世の中に"デザイン"という言葉が自由にトリミングされ、実態の欠落した抜け殻となって、日本社会を漂っているように感じています。
大学には文系理系問わず◯◯デザインという学科がいくつも新設され、企業や役所は組織改編の中で◯◯デザイン部などという部署を次々と立ち上げています。
同じ人間集団の中に複数の"デザイン"組織がいたずらに生まれては雑に消費され、意味なく死を迎えているような気がしています。
いつしか"デザイン"という言葉は、私達が抽象概念を言語化する労力を省き、あるいは責任の所在を曖昧にする体の良い締め文句として日本語化されました。
20年ほど前に米国で生まれた「デザイン思考」が生み出した一種のデザイン崇拝は、太平洋をまたぐ中で発酵し、形を歪めながら液状化して日本社会へ染み出していきました。
スーツを着てデザイン思考ワークショップを受け、"デザインを理解した"50代の役員たちは鼻息を荒くしながら「次の時代はデザインがくるぞ」と息巻き、自組織の中に"デザイン"的な手法を取り入れようと躍起になりましたた。
若手社員にもデザインのありがたさと重要さを解き、"デザイン"的な発想法をベースにした新規事業開発や既存製品の再構築を行わせようとしました。
あれからだいぶ時が経ち、デザイン思考は日本社会を変えてくれるような成果を与えてくれたでしょうか。
残ったのは形骸化した"デザイン"という言語記号で、デザインはその言葉の本質を離れ、ただ役所やリタイヤ間際のサラリーマンたちの言葉遊びに利用されるようになっているように感じています。
そしてそういった言葉は往々にして、時代の潮風にさらされながら風化し、消費されつくされた後は静かに人々の記憶から失われていく運命が待っている気がします。
これからデザインは日本の中でどうなっていくのでしょうか。
AI時代に求められる"デザイン"はデザインなのか
これから求められるデザイナー像として、AIの力でクリエイティブを拡張させるデザイナーと組織文化をつくるリーダー型のデザイナーというものを挙げさせていただきました。
無理やりにデザイナーとは言ってみたものの、果たしてこういった仕事が既存のデザインという枠組みに入るのかはちょっと分かりません。
AIの力を駆使しながら世の中になかったクリエイティブを生み出すような仕事はAIエキスパートやAIアーティストという言葉にも近しいし、組織を導いていくような人材はプロジェクトマネージャーやプロダクトリーダーなどという言葉がすでに存在しているためそちらに吸収される類のもののように感じます。
決して今日的なデザインスキルの重要性が失われることはないでしょうが、AI時代には確実な変化が訪れます。デザインの「制作」に割くリソースは減少し、代わりにAIが生成したデザインを「最適化する能力」や「調整力」といったスキルの重要性が増すでしょう。
人間の業務領域は、AIとの協働による新たなクリエイティブの探求や、人間同士のコミュニケーションを通じて組織を適切に機能させることに向かっていくと考えられます。
新しい時代がくる!
とは言え、個人的にはこういった大きな時代の流れに対しては不安よりも期待のほうが圧倒的に大きいものです。新しいツールの誕生は創作の敷居を下げ、未知のクリエイティビティを生み出す可能性を秘めています。
音楽業界を例に挙げると、YOASOBIや米津玄師など、現在世界的に注目されている日本のアーティストたちの出自はボーカロイドでした。
かつては大規模なスタジオと専門家チームが必要だった音楽制作が、DTM(デスクトップミュージック)の普及により、一台のPCで可能になりました。これまで高コストだった音楽制作の敷居が下がったことで多くのアマチュアミュージシャンたちが頭角を表してきました。
彼らの多くが当時素人の学生や会社員で、学業や仕事の合間の趣味活動として自分たちの思い描く世界を描き出し、それらが人々の共感を生み、大きなムーブメントを生み出していきました。
さらに最近では諭吉佳作/menのようなZ世代が、iPadやスマホひとつで音楽制作をするまでに至っています。彼らは通学の電車の中や休み時間に思いついたアイディアをすぐにiPadの中で具現化し、さらに彼ら彼女らの瑞々しい感性から紡ぎ出される言葉が乗り、独特な音楽世界を創造しています。
そしてAIが登場しました。これによって創造の敷居がさらに下がり、その中で価値がなくなる仕事は確かにあるのですが、それ以上にクリエイターが増えることによる次世代の創作物が生み出されていくことへのワクワクが止まりません。
デザインも音楽も、今後は世代を超えた真剣勝負の場になるかもしれません。60代のベテランクリエイターと小学生が同じ土俵で競い合う世界が来るかもしれません。この変革の時代、私たちデザイナーは自身の役割を再定義し、新しい可能性に挑戦し続ける必要があるでしょう。
将来「デザイン」という言葉はどのようなかたちで存在しているのでしょうか。はたまた、それを代替するような新しい概念を表す言葉が生まれるているのでしょうか。
そのような世界でも、一人のクリエイターとして、楽しくものづくりができる未来が訪れることを願っています。
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