あなたはどんな宗教を信じていますか?と聞かれたらーインドネシア編
あなたの宗教は?なんて日本で聞かれることは稀ですよね。インドネシアでは普通に聞かれますし、書かされます。書かされすぎて、仏教徒(Buddhist)の綴りを覚えたくらいです。
日常生活や仕事で相手から聞かれるというよりは、役所や手続きで確認されることが多いです。
そもそもパンチャシラ(建国の5原則)の1番目に、「唯一神の信仰」が掲げられており、イスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥ教、仏教、儒教のいずれかを信じないといけない原則になっています。
要は、信教の自由は保障されているものの、無宗教は許されないということです。
日本人からするとプライバシーの侵害にも感じるこの押し付け感の背景を、今回は説明してみたいと思います。
ちなみに、私は「仏教です」と迷いなく答えるようにしています。
◾️ 宗教=その人の倫理観
これが宗教がバックボーンにある人たちの感覚です。
逆に言えば、無宗教ですと言うと、言われた側は「この人はお金を盗んだり人を殺したりすることに良心の呵責を感じない、アウトローな人なのかもしれない」といぶかしむ恐れすらあります。
北斗の拳の世界ですね。たとえが古くすいません。
これは他の留学生に聞いた話ですが、バーに入る時にカバンを開けさせられて銃やナイフが入っていないか確かめてくるらしいです。壁にはピストルの絵に大きくバッテンがついているとのこと。
酒を飲む奴=アウトロー扱いなんだと思います。
あるいは、アウトローとまでは行かなくても、その人の倫理観のとっかかりが無さすぎて、途方に暮れるかもしれません。
特定の神を信じず教えに従わないのであれば、あなたの倫理観は何に従って形作られているの?という感覚です。
日本人は、学校教育や家庭でのしつけにより、特定の宗教ではなく人としての正しい考え方を身に着けています。
他の国々では、宗教の教えにより正しい行いとは何かを身に着けますので、イスラム教徒はイスラム教徒の、プロテスタントはプロテスタントの教義に沿った倫理観を持っています。
無宗教の人は倫理観を何も持っていないという勘違いが生まれる原因はここにあります。
宗教ではなく道徳教育により倫理観を身に着けられるとは多分想像できないんです。
◾️ 異教徒ととの結婚生活はつらい=>同じ宗教同士で結婚
イスラム教では、イスラム教徒は異教徒と結婚してはならないという決まりがあると聞きます。
コーランの該当箇所を読んでいないため、自分で確かめたわけではないのですが、旦那がイスラム教徒なので改宗しましたとか、実際に見聞きしたことがありますので、一般的なのは確かです。
そうなると、相手の宗教が何かは切実な問題になります。
仮にそこまで厳しいルールがなかったとしても、結婚相手がイスラム教徒の場合、同じまな板、包丁、鍋で豚肉を調理するのなど言語同断ですし、犬を飼うのもあり得ません。
相手が断食で苦しい目にあっているのに、目の前で平気で飲み食いしたり、酒を飲めば大喧嘩になるでしょう。
不浄の手である左手でプレゼントやラブレターを渡すと、相手がムスリム(イスラム教徒のこと)だと、ギョッという反応をします。
それさっきうんこを触っていた手だよね!?ということです。
キリスト教徒は日曜礼拝があり、イスラムは金曜の昼に男性はお祈りに集まります。
安息日には何もしてはいけないというのもありますね。
宗教の教義に従って生きている人にとって、生活習慣そのもののリズムがありますので、それを乱されるというのはあり得ないことだというのは想像いただけると思います。
相手の宗教を知る必要があるというのはこういう切実な背景があります。
◾️ 信心深い人=信頼できる人
私は日本人ですので、食事の前にいただきますと言いますし、食べ終わったらご馳走様でしたと言います。
それだけでなく、私の場合は手を合わせて合掌してから食べ始め、ご馳走様の時も手を合わせます。
インドネシアでこれをやると、あの人は信心深い人で立派な人だ、信頼できる人だと言われることがあります。
これは私の運転手から教えてもらいました。うちの運転手は他の運転手仲間や警備員に自慢していたようなのです。
こういうイメージは役に立つことがあります。
私はジャカルタ駐在時代に資本主義の権化のような仕事をしていましたので、リストラで投資先の従業員を大量に解雇して恨まれたり、噂では黒魔術をかけられたりしましたが、信心深い人というイメージにより最後は守ってもらっていたという実感があります。
インドネシアでは決まった期間にメッカに巡礼した人に「ハジ」という称号をつけます。Sirみたいな感じで、とても尊敬されます。
◾️ 宗教は?と聞かれたら何と答えるのが正解なのか
信じている宗教があればその宗教の名称を言うのがベストです。とりあえずインドネシアで無宗教というのはやめておくのが無難と私は思います。
ご参考まで、私がアメリカ人と日本人の宗教観について話したときに納得したと言ってもらった話をします。
彼は祖父がユダヤ教、両親がキリスト教に改宗した一家に生まれ、キリスト教徒として育ったものの、どうも宗教は嘘くさいと思っていました。
「日本人は無宗教らしいじゃないか、お前は何か信仰はあるのか?」と聞かれました。俺の考えに同意してくれるよな、といったノリの質問です。
私はこのように説明しました。
無宗教と言われているが、自分は日本人が無宗教だとは思わない。昔から人間の力を超えた存在として、自然や目に見えない力(Something great)に対し畏敬の念を抱いている。
何か悪いことをしたときはお天道様(太陽の意味)が見ていると教わって育つ。一神教の世界の神とは違うが、概念としては似ているんじゃないか。
自分も同じだ。仏教徒ではあるが、ブッダを神として信じている感覚はない。仏教の教えに詳しいわけでもない。何か偉大な力によって生かされていて、導かれているという謙虚な気持ちで日々を過ごしているんだ。
それは自分の中では仏教であり、宗教なんだ。だから神社も行くし、寺もチャペルも行く(実際Dukeに留学中、校内のチャペルに行くのは好きでした)。
彼は、Something greatに畏敬の念を抱いて謙虚になるとすればそれは宗教と同じではないかという考えには賛同すると言っていました。
むしろ嘘くさい話を無理に信じろと言われるよりよっぽど納得できるとも言っていました。
もし強いポリシーを持っているのであれば、私は特定の宗教を信じません、何を信じるかは私のプライバシーなので放っておいて下さいという態度を貫くのもありです。
皆さんが海外で宗教の話に関わることがあれば、ご参考にしていただければ幸いです。