見出し画像

日本のベンチャーキャピタルの歴史 90年代から世の中に認知される2000年まで

MBAの修士論文の候補として、インドネシアのベンチャーキャピタルの歴史を考えていたわたしは、その前に日本のベンチャーキャピタルの歴史からだと考え、新入社員の頃のように当時読んだ本を読み返したり、近年出版されたベンチャーキャピタル本を読んだ。

そしてベンチャーキャピタルが日本で認知されるようになったのは素晴らしいことながら、過去の経緯が伝わっていないのはもったいないと思うようになった。

結局修士論文は別のテーマにすることにしたので、今回さわりだけNoteに記録しておきたいと思う。といいながら10,000字を超えてしまった。


1.日本のベンチャーキャピタルのはじまり

アメリカに遅れること25 年、1970年代に日本で第一次ベンチャーブームがおきた。
日本で最初に作られたベンチャーキャピタルは1972年設立の京都エンタープライズディベロップメントと言われている。わたしは日本長期信用銀行系の日本エンタープライズディベロップメント(通称NED)が日本初のベンチャーキャピタルと新入社員の頃に習った。
そして3社目が今も残るジャフコ、旧日本合同ファイナンス(1973年設立)である。

創成期のベンチャーキャピタルのビジネスモデルは、非常に惰弱な財務基盤の上になりたっていた。ベンチャーキャピタル業界の2大イノベーションのうちのひとつ、投資事業組合が生まれる前だったので、なんと金融機関からお金を借りてきて投資をしていたのだ。

ベンチャーキャピタルは投資をしてから回収まで何年もかかるのでその間収入がなく、金利など払えるわけがない。しかも投資先はたくさん倒産し、さらには投資初期に倒産は集中するのが一般的だ。

このため多くのベンチャーキャピタルが存続できずに消えていった。ベンチャーキャピタル冬の時代である。
官製のベンチャーキャピタルである、東京、名古屋、大阪の中小企業投資育成は、配当モデルを編み出し、今もそのモデルのまま存続している。
この説明もしたいが、話が拡散するのでまた別の機会に書きたい。

2.ベンチャーキャピタルの2大イノベーションと重要な2つの法改正

今あるベンチャーキャピタルの隆盛は、2つのイノベーションによって死の谷を乗り越えることができたおかげである。
一つ目は投資事業組合の発明、もう一つは分離型新株引受権付社債を使ったストックオプションの代用。いずれもジャフコが日本で初めて実施している。
順に説明していく。

(1)投資事業組合の発明

このアイデアは、ジャフコがアメリカのVCの仕組みを学び日本初の投資事業組合を作ったので、発明というのは言い過ぎかもしれないが、あの当時日本の法制度を変えないまま解釈のみで作り上げた点で、イノベーションといえる。

投資事業組合とは何かというと、ファンドである。出資者からお金を預かって、それを使って投資をしていくのは今では当たり前の話なので、何を言っているのか不思議に思われる方も多いと思う。
ただ、人が作った道をたどって歩くのと、最初に道を作るのは雲泥の差があり、かつ今は法律が後追いで整備されているから舗装までされている状態だ。

この話はおもしろいが長くなってしまうので、興味ある人は巻末にあげる本を読んでみてほしい。
当時のジャフコの社長の故今原さんが、NVCA(全米ベンチャーキャピタル協会)に参加し情報収集をはかり、親切なベンチャーキャピタリストから仕組みを書いた紙をもらってきて、それを当時のジャフコの役員(元CSKベンチャーキャピタル副社長の斎藤さん)と森濱田松本法律事務所の故松本弁護士(当時は森総合と濱田松本が合併する前)が日本の法律でできるように応用して作り上げたものだ。民法上の組合を使うやり方を編み出した。

この投資事業組合の発明により、ベンチャーキャピタルは銀行借り入れをして投資する惰弱な体制から、10年の期間のあるファンドでかつ管理報酬による活動コストも得られる体制に変わり、発展していくことになった。

(2)新株引受権付社債

今はストックオプションが発行できるように法律が整備されたので、何を言っているのか分からない方が多いと思う。ただ昔はストックオプションがなかったので、VCの資金を受けつつも創業者の持ち分を一定レベルで確保するのはとても難しかった。

当時は優先株もなかった(厳密には配当優先株とか無議決権株はあった)ため、普通株を割安で発行して高い株価で優先株を発行するという手も使えなかった。
すべて普通株なので、社長だけ安く発行して、VCに高く発行しようにも、一物二価問題が発生し税務リスクがあるうえ、上場審査でも引っかかってしまう。

この発明の前は、増資を繰り返しているうちに創業者のシェアはどんどん下がっていき、いったい誰のために頑張っているのかという状態になってしまうので、上場のモチベーションがわかなかった。

この問題をクリアしたのは、当時すでにあった分離型の新株引受権付社債を使う発明だった。
新株引受権と社債が分離できるので、たとえば1億円の新株引受権付社債を発行し、新株引受権を分離して社長に売却し、社債部分は償還してしまうと、あたかも新株引受権のみ発行したような形になる。
実際には100%償還するとグレーなので、VCが一部持ち続けるのが当時のやり方だった。償還部分は通称ポンカスと呼ばれていた。
日本で最初にこのやり方を使ったのがジャフコで、今も上場しているソディック社に対し日本初の分離型新株引受権付社債の発行と譲渡を行った。

社長は上場審査が通り上場確実になると銀行からお金を借り入れ、新株引受権を行使することで持ち分を一気に増やす。そして上場時に一部を売り出すことで借金を返済するというやり方をしていた。

(3)中小企業等投資事業有限責任組合契約に関する法律

官僚の言葉なので法律の名前が分かりにくい。簡単にいうと、これまで既存の法律の枠組みで運営されてきた投資事業組合の致命的な問題を解決した画期的な法律だった。
1998年の出来事だ。

日本のベンチャーキャピタルがアメリカに比べて規模が小さいのは、年金基金や生命保険の資金が運用できないからだと言われていた。なぜできないのかいろいろ理由はあったが、一番の問題はファンド出資者が法律上無限責任を負う建付けになっていたこと。民法上の組合を使う弊害だった。
ベンチャーキャピタルは運用しているファンドで借入をすることはなく、そうしないと契約上も規定していたが、もし借金をして返せないとファンド出資者が返済責任を負う法律上の建付けになっているのがネックになった。

この建付けだと、保守的な運用をしないといけない年金基金や生命保険会社は出資できなかったのだ。

この法律ができたことによって、ゼネラルパートナー(無限責任組合員)とリミテッドパートナー(有限責任組合員)に分けることができるようになり、出資者は出資分だけ責任を負えばよくなった。
この法律を経産省の人間として中心になって作り、のちにVC業界に転じたのが郷治さん。UTECの社長で、今は日本ベンチャーキャピタル協会の会長になっています。

この法律を元に1号ファンドを作ったのは元ジャフコの村口さん。
レジェンドと言ってよい人です。

(4)2001年の商法改正

この時の商法改正はベンチャーキャピタル業界にとっても画期的なものだった。
ひとつはストックオプションの法的根拠ができたこと。新株引受権付社債を使っていたので新株引受権とこれまでいわれていたが、この改正後は新株予約権と言われるようになった。
1997年の商法改正でストックオプション自体の法的根拠はすでにあったが、不完全な制度だったのが、この時の商法改正により柔軟になり運用しやくなった。

ふたつめは優先株式の発行が柔軟になったこと。これまで無議決権、優先配当くらいしかなかったのに、種類株の発行が認められるようになり種類株ごとに権利を変えられるようになった。
特に残余財産の優先分配は、低い株価で発行される普通株とプレミアをつけて発行される優先株がある場合に必須の権利だった。
また、種類株ごとに議決権を行使するというのも、会社の効率的な議決権運用には不可欠だった。

この時以来、投資契約がだんだんとアメリカの投資契約のように変わっていった。株主間契約が重要になってきたというわけ。

3.1990年代のベンチャーキャピタルの投資対象と営業スタイル

1999年のマザーズ、2000年のナスダックジャパンといった新興市場が開設されるまで、ベンチャーの上場は店頭市場、あるいは東証(東京証券取引所)2部または大証(大阪証券取引所)2部と相場が決まっていた。
そして、上場するには当時経常利益(営業利益ではなく経常を使うのが一般的でした)で3億円以上になることが一つの目安だった。

ベンチャーキャピタルの投資期間は、前項で説明した投資事業組合の期間が10年のため6年、最大でも10年。投資して6年で経常3億円に達するには、すでに利益が出て拡大期に入り始めた企業でないと時間的に達成できない。

そうすると最低でも経常で30百万円出ているくらいの規模でないと投資対象にはならなかった。

わたしは2000年4月に本社勤務になるまで、大阪、岡山、広島で、中四国のベンチャーを担当していて、それこそ経常で30百万円以上出ている会社にかたっぱしから電話をかけ、飛び込み営業し、社長に会うというスタイルの営業をしていた。
証券会社の色が強かったので、VC業界では営業といわずに「外交」という。

これは当時のベンチャーキャピタルはジャフコだろうと大和証券系の日本インベストメントファイナンス(通称NIFニフ)だろうと同じで、銀行系VCだけは後からメインバンクですと言っていっちょ噛みさせてほしいとやってくるスタイル。

まず、社名をいうと怪しい先物会社やサラ金に間違われてしまい、受付を突破できない。わたしも日本アジア投資なんて言ったら電話を切られてしまうので、いつも「ジャイクのウダです」と言っていた。ジャフコもNIFも同じだと聞いたことがある。

2000年4月に本社勤務になったときは、時代はインターネットバブル。ビットバレー(当時渋谷にスタートアップが集まり、ビットバレーと言われていた)華やかりし頃で、ベンチャーキャピタルという言葉が認知されていたので、みな普通に「日本アジア投資です」といって電話をかけていて、東京は違うなと驚いた記憶がある。

地方の中小企業の経営者で、上場を意識している会社はほぼなく、基本的には直接金融とはなにか、上場することのメリットは何かという説明からすることになる。
上場なんて自分たちのような中小には無縁の話と思っていたという経営者をたきつけて上場を目指させるパターンが一番多かった。
何度も社長にあって信頼関係を築けないと、出資などさせてもらえないので、会い続けてもらうのが一番大事で、そのために「こいつと会うといろいろおもしろい情報を持ってきてくれるから会うか」と思ってもらわないといけない。
なのでみな必死に勉強していた。

新聞の切り抜きをまとめる。同業者で上場している会社の資本政策を2の部から作り出したり、小売業なら出店スピードやFC展開のやり方を調べてまとめて報告したりした。先輩たちにいろいろと教えてもらいながら、やり方をパクったりしながらやった。
あの有名な会社が5年前はこんな小さかったのかとか、銀行借り入れではなくVCから調達したお金を使って成長スビードを上げるのはこういうことなのかとイメージしてもらうためだ。

今だから言えるが、審査に出す事業計画書を社長と一緒に作っていた。
今なら信じられない話だ。PLは作れるが、BSとCFが作れない経営者がいた。ヤマカンで経営していたのだ。牧歌的な時代である。

4.ベンチャーキャピタルの上場

日本合同ファイナンス(ジャフコ)が店頭市場に上場したのが1987年、日本アジア投資(ジャイク)が店頭市場に上場したのが1996年、SBIが2000年、フューチャーベンチャーキャピタルが2001年に上場した。
当時ベンチャーキャピタルが上場するのは、運営している投資事業組合と利益相反があるからおかしいという意見がよく出ていたが、1999年にブラックロックがニューヨーク証券市場に上場すると、ぴたりとやんだ。

わたしがベンチャーキャピタル業界を離れる前にすでに洗練されてきていたが、昔は利益相反が疑われる状態だったのは確かだ。なんでもありの世界だった。

たとえば、投資事業組合を運営しているにも関わらず、本体で投資を行うことをよくやっていた。投資事業組合の投資対象から外れるというのであればファンドを使えないのは明白なので問題ないが、完全に投資対象としてかぶっているのに本体で投資を行うのは良くない。
もうかる案件だからファンドではなく本体で投資しキャピタルゲインを全部自分のものにしようとしていると疑われても仕方がない。
ベンチャーキャピタル業界ではジャフコがまっさきに本体投資をやめたが、当時はみな本体投資をしていた。

それと昔は投資すると投資フィーを投資先から取っていた。ファンドからお金を出資しているのに、そのお金の一部を投資フィーという形で本体が取ってしまう。「たこ足食い」と言われ、おかしいのではないかという議論がよくあった。
銀行はたとえばシンジケートローンを組むときに組成フィーを取ったりするし、金融業界でフィーを取るのは一般的だという意見もあったが、ファンドと本体の利益相反になるので、次第にやらないようになっていった。

さらには、未上場企業は上場前になんども増資をくりかえすのが普通なのだが、最初の投資と2回目の投資で別のファンドを使うことがあった。
これも厳密には利益相反の可能性がある。
既存株主からすれば、増資時の株価は高ければ高いほど持ち分が希釈しないので望ましいが、一方で新たに増資する方はなるべく低い株価で投資をしたい。
なので、アメリカのVCはわたしがシリコンバレーに駐在した2001年に確認した時点で一つの会社には一つのファンドからしか出してはいけないというのが常識になっていた。
さらには1回目と2回目のリードVC(条件交渉をするリード役のVC)は別のVCにするのも常識になっていた。

上場したときベンチャーキャピタルの収益はわずかだった
ジャフコが上場したとき、またジャイクが上場したとき、収益の源泉はキャピタルゲインではなかった。
なんだったかというと、投資事業組合の管理報酬であり、消費者金融への融資による金利収入だったのだ。これは上場時の資料を見れば明らかなので、秘密でもなんでもない。

消費者金融への融資は、ジャフコ時代の今原さんが始めた手法で、そのモデルをジャイクに持ってきたので同じビジネスモデルで上場まで持って行ったということになる。
1980年代はサラ金といわれ高金利やえげつない取り立てが社会問題化していた。90年代になればそこまでひどくはなかったが、まだ後ろめたい商売という雰囲気はあった。当時ベンチャーキャピタルは消費者金融に出資を行い上場を目指させたのと同時に、銀行から借り入れたお金を消費者金融に貸付けてサヤを抜く商売も行っていた。
この安定収入により、利益を生み出していたのが現実だ。

投資事業組合の管理報酬で販売管理費をまかないトントンまで持ってきて、さらに融資事業により黒字を拡大させるという手法だった。
投資先が上場してキャピタルゲインが計上できるようになると、消費者金融への貸付はだんだんと行わなくなり、ベンチャーキャピタルとしての収益構造になっていった。

5.ドットコムバブルのころの思い出

わたしが本社に移ってきたのは2000年4月ですでにドットコムバブルは終了していた。なので、残念なことにビットバレーでみんなが浮かれていたときにわたしはその場にいなかった。
それでも広島支店にいながら浮かれた話はよく聞いていて、本社勤務になってからもバブルの残り香はあったため少しは体感できた。

ドットコムバブルのときに何があったかは長くなるのでここには書かないでおくが、この時の熱が今につながるスタートアップブームにつながり、ベンチャーキャピタルが世間一般に認知されるきっかけにもなったのは確かだ。
だから、わたしはバブルに浮かれたことを否定的に思ったことはない。

恥ずかしい話だが、わたしもドットコムバブルに乗って失敗投資をしているので、その話を少しだけ書いておきたい。

シリコンバレーのドットコムバブルがはじけたのは2000年3月だったが、インターネットを使った新しいビジネスモデルはそのあとも次々と生まれており、BtoBであればまだいけると言われていた。
わたしが投資をしたのは、イーシーコムという石油会社のエリート社員(社費留学組)が脱サラして起こした会社で、何をしていたかというと転玉のマーケットプレイスを作ろうというアイデアだった。
転玉というのは業転玉ともいい、石油業界の用語。

業転玉(ぎょうてんぎょく)とは、石油元売の余剰在庫ガソリン軽油灯油重油)がノーブランド品として供給される業者間転売品の通称である。

Wikipedia 業転玉

ガソリンスタンドは石油元売り会社の系列で、元売りから商品を仕入れるのだが、売り切れずに余るときや、足りなくなるときがあり、業者間で転売されるのが常であった。
この量は全体の20%とも30%ともいわれ、そのやり取りはとても非効率だった。おおっぴらにできずこっそりやるからなおさらだ。

イーシーコムは業者間の売買をこっそりやるのではなく、おおっぴらにやればよく、しかもインターネットの技術を使うことで低コストで透明性を高めた取引になると考えていた。一カ所に取引を集中させれば、取引も成立しやすくなる。そして、この商売はトップの地位を確立してしまえば、新規参入はほぼ不可能になる。典型的なWinner-take-allのビジネスモデルだ。
わたしもインターネットというインフラを使って世の中をよくする事業だと思い、出資をすることにした。
イーシーコムには当時灯油の配達販売(昔は車で灯油売りが回ってきた)で日本最大の会社、当時日本最大の重油輸入会社である某電力会社も出資をした。パートナーもよいし、勝つだろうとわたしは思った。

当時ドットコムバブル崩壊後でも成り立つのではと言われた企業の一つだった。もう一つは上場したラクーン。
ところがうまくいかなかった。元売りの抵抗、締め付けが想像以上に厳しかったのである。
業界慣行の訂正に公正取引員会が乗り出しのは2013年で、もうイーシーコムはつぶれていた。

今から考えれば経営者の質にも問題があったかもしれない。経営企画にいるようなタイプの人だった。
大きな流れをつかんだり、キャッチーな言葉を考えたりするのは得意でビジョンもあるのだが、そのアイデアを地道に実行したり、あきらめずに困難を突破する強い精神力、しぶとさがなかった。
実務肌のパートナーがいたら成功したかもしれず、実は専務がそういうタイプだったのだが、うまくいかなかった。

ドットコムバブルのあと、2002年にアンジェスが上場しバイオベンチャーブームが起きる。この辺りで流れが完全に変わった。なにしろアンジェスは赤字のまま上場し、20年以上たつ今にいたるまで一度も黒字を計上したことがないというツワモノだ(念のため、ほめているのではなく皮肉で言っている)。
ベンチャーキャピタルの用語でできたばかりの会社をシードとかアーリーステージといい、上場直前の会社のことをメザニンというのだが、バイオベンチャーが出てきてからは「アーリーと思ったらメザニンだった」という現象が多発した。
赤字なのに期待値だけで上場できるようになったのだ。

そのあと、ライブドアブームで上がり、ライブドア事件で落ち、回復したと思ったらリーマン事件で大暴落という流れになる。

6.おすすめの参考文献

新興市場ができる前のベンチャーキャピタル黎明期の話を知りたいという方のために、書籍を紹介しておく。もう古本でしか手に入らない本ばかりで申し訳ないです。

(1)日本のベンチャーキャピタルー未来への戦略投資 浜田康行(著)
浜田先生は北海道大学の教授で日本で初めてベンチャーキャピタルを対象に研究した人。
彼がベンチャーキャピタルを研究対象にしたきっかけは、本人から聞いたわけではなく今原さんから聞いたのだが、浜田先生の兄である浜田輝男氏と今原さんのつながりで今原さんが勧めたらしい。
浜田輝男氏はエアドゥーの創業者でもある。鶏卵の会社でジャフコの投資先だったのでつながりができた。今原さんはうまくいかない投資の例でよく鶏卵会社の話をしていて、マーケットがいかに大事かの話だった。鶏卵の価格がどれだけ下がったか、皆さん知っていますか?というストーリーだった。

(2)荒海に独り行く 今原禎治(著)
ジャフコの社長、日本アジア投資の社長として2社を株式上場に導くと同時に、ベンチャーキャピタルの礎を築いた人。
この本は当時東洋経済に連載された記事をまとめて本にしたもので、題名が悪いのであまり売れなかったと思うが、内容はとてもおもしろい。
ベンチャーキャピタルの黎明期の話も出てくるので、ご興味があればどうぞ。
わたしはぎりぎり今原さんのお話を直接聞けた世代です。もちろんただの新入社員なので名前も覚えてもらっていないレベルですが。
今原さんはお亡くなりになられています。ご冥福をお祈りします。

(3)ベンチャーキャピタルの実態と戦略
この本と、販売はされなかったものの有志で日本語に訳した「アメリカのベンチャーキャピタル」アーサー・ロック(著)が、わたしの若かりし頃ベンチャーキャピタルとは何かという勉強に使われていた。
わたしが入社した1995年は、ベンチャーキャピタルのことをみんなよくわかないまま全力で走っていた時代だった。新しく入った社員は先輩たちが得た知見を足場に成長していくので、すごいスピードで全体が成長していったまさに黎明期を体験した。
この本の編集の中心になった秦さんは、当時ジャフコの海外審査部長で、その後國學院大學の教授になったので、先生ですね。
先月お亡くなりになったと聞きました。ご冥福をお祈りします。

(4)Done Deal
わたしは原著で読んだが日本語訳も出ている。
名だたるベンチャーキャピタリストが体験をざっくりと語ったもので、わたしは当時とても参考にしていた。
ベンチャーキャピタルの仕事をしている人間にとっては、彼らの言葉の裏にある内容(どういう活動を通してそういう考えにいたったのか)を感じ取れるが、そうでない人にとっては、あいまいすぎて分からないとなり、あまり売れなかった本。
当時はベンチャーキャピタル自体がよく知られておらず、ベンチャーキャピタル業界全体で1000人くらいしかいないと言われた時代で、2000冊売れたらすべて行きわたって終わりと言われていた。

(5)ザ・起業物語 
当時はシリコンバレーのベンチャーキャピタル、スタートアップはどうなんだというのをこの本で学んでいた。
伝説のベンチャーキャピタリスト、クライナーパーキンスのジョン・ドーアが失敗投資として例に出す会社で、スタートアップが成功するのはいかに大変かがわかる。
パームコンピューティング、今のスマホの原型となるアイデアです。

(6)社長失格 板倉雄一郎
起業物語ほどのスケールはないが、日本では当時破格の大きさのスタートアップが倒産し話題になった。
ハイパーネットという会社で、ここのアイデアは、その後のNTTドコモのiモードにつながっていく。このiモードを中心になって作った夏野さんは、ハイパーネットの副社長だった人だ。
当時のインターネットの最先端を走っていた会社で、どうやって失敗したのかとても分かりやすく参考になる。

ホリエモン事件はいまだに多くの人が話題にするし、それだけひどい事件だったのだけれど、これもわたしの記憶に残っている出来事だ。
あと歴史的な出来事としてはWinny事件があげられる。P2P(ピアツーピア)技術を使ったデータ共有ソフトを開発したら、違法アップロードを幇助したとして逮捕されてしまった事件だ。2004年の出来事。

ライブドアとWinnyを生かして拡大させていたたら、今頃どうなっていたのかと思うと残念な気持ちになる。

まだ読んでいませんが、本が出ているようなのでご紹介しておきます。



有限責任組合法
経産省の解説をつけておく。
この法律が画期的なことはすでに述べたが、この裏では経産省と財務省の駆け引きもあった。ベンチャーキャピタル業界の業界団体がなかなか作れなかった背景もここにあったと聞いている。
簡単にいうと縄張り争いで、ベンチャーキャピタル業界がどっちの省庁に属するかという問題だ。ベンチャーキャピタルはその歴史上、証券会社と銀行の子会社として作られてきた背景があり、大蔵省管轄というイメージがあった。
日本アジア投資も海外経済協力基金(OECF)が50%出資していた半官半民会社で、大蔵省管轄だった。

当然大蔵省(今の財務省、金融庁)は、VCは金融業なのだから金融監督庁が管理する業界の範疇だと考える。一方で経産省は新しい産業を作り出していくという側面からベンチャーキャピタルを見るので産業政策の一環と考える。

https://www.meti.go.jp/policy/economy/keiei_innovation/sangyokinyu/pdf/konmen.pdf

商法改正

論文(会社法における種類株式設計の柔軟化とそのコスト:谷川寧彦)
https://core.ac.uk/download/pdf/144442691.pdf

野村証券のレポート
http://www.nicmr.com/nicmr/report/repo/2002/2002win06.pdf

ちなみにトラッキングストックという言葉が出てくると思うが、当時は画期的と言われソニーも発行したがうまくはいかなかった。ここで詳しい解説はしない。
当時わたしがいた部署ではアメリカの事例も含めなにかVCで使えることがないか研究していた。

これで説明を終わりにしたい。
20年以上前の話を思い出しながら書いたため、記憶違いや勘違いもあると思う。なのでお気づきの点があれば、ご指摘いただければ幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?