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インドネシア人の親切と日本人の親切は別物な気がする

報道によれば、日本人はおもてなしの国だと言われ、観光に来た人が感動することが多いようです。

ところが、わたしのインドネシア人の知人で、日本に旅行したことがある人はたくさんいますが、日本人が親切だったとか、ホスピタリティーがすごかったなどという人に会ったことがありません。
清潔だったとか、秩序だっていたとか、礼儀正しいとか、日本は先進国だったというたぐいの感想が多いです。

報道が偏向している可能性はおおいにありつつも、わたしはインドネシア人の方が日本人より親切だからじゃないかと思ったのです。だからまったく驚かない。より正確にいえば、親切の中身や動機付けが日本人とインドネシア人の間で異なる気がします。

この感覚に気づいたきっかけは、Noteの記事です。福田さんのNoteは気づきを多く得られるのでわたしは愛読しています。

このなかで、Decencyを「親切」と訳すケースが紹介されていて、いかにも欧米的あるいは文明的な概念だと思ったのがきっかけです。(福田さんのNoteに出てくる親切はCourtecyを親切と訳している)

社会的な動物である人類が、不特定多数の人たちと社会を構成するうえで、Decentというのは欠かせないということかと思います。
日本は昔は違ったと思いますが、今や欧米的なDecentに近い感覚からの親切やおもてなしを行っているんじゃないかという説が頭に浮かびました。

Decentというのはもう少し説明すると、ちゃんとした格好をしているとか、品行方正な感じの人を指す言葉です。失礼のないようにちゃんとしろよ、なんてときに使う言葉ですね。マナーです。Courtecyも礼儀作法にのっとった感じの意味なのでマナー系です。

インドネシア人の親切はどうかというと、もっと本能的というか、かわいそうだとか、気になって仕方がないという感じの親切心に感じます。
DecencyやCourtecyといった感じは、ジャワ人とスンダ人にわずかに感じる程度で、職業的な感じも、日本人みたいに「わたしたちのおもてなしすごいでしょ」みたいな感じもありません。
多くの日本人の心から失われてしまった「惻隠(そくいん)の情」が、彼らには色濃く残っているようなのです。
もしかすると、わたしが知らないだけで、周りに親切にしろという宗教的な義務感があるかもしれませんが、本心から気にしている感じなんです。

"優しさ"により近い"親切"かもしれません。

英米法を学んだ人はキリスト教徒でなくても知っていると思いますが、「善きサマリア人」の話が出てきます。

ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。そこに三人の人が通りかかる。

最初に祭司が通りかかるが、その人を見ると道の向こう側を通り過ぎて行った。次にレビ人が通りかかるが、彼も道の向こう側を通り過ぎて行った。しかし三番目に通りかかったあるサマリア人は、そばに来ると、この半死半生の人を助けた。傷口の治療をして、ろばに乗せて宿屋まで運び介抱した。そして翌日になると宿屋の主人に怪我人の世話を頼んでその費用を払った。

このたとえ話の後、律法学者に対してイエスは、このたとえ話で誰が怪我人の隣人となったかを律法学者に問い、律法学者が「助けた人(サマリア人)です」と答えると、「行って、あなたも同じようにしなさい」とイエスは言った。

Wikipedia 善きサマリア人

Good Samaritan Lawと言い、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗しても結果責任を問われない」という趣旨の法」(Wikipediaより)と言われています。法理ですね。

これなんかは、もともとは惻隠の情から出た自然な行為だったと思いますが、聖書になると宗教の教え、神の教えに従うという規範的な雰囲気が出てきてしまうので、惻隠の情よりDecencyに近づく感じがします。
隣人には親切にするようにという聖書の教えに忠実に従いますといった感じです。

インドネシア人は惻隠の情だけではない

話を複雑にしてしまい申し訳ありませんが、インドネシアの場合この親切という概念に甘やかしや甘えという概念も入っているようにわたしには感じます。

例えば、日本だと自業自得だとか、自己責任とか、すぐに言い出しますよね。不幸にして災難に遭ってしまった人や、本人は悪くなく親や周りの人間のせいで不幸になってしまった人は助けるべきだが、本人のせいで不幸になった場合は助けなくてもよいという考えです。自助の精神とも言えます。

インドネシア人は自業自得とされる範囲がとても狭く、イスラムの教えのなかでもかなりまずいものに反するくらいじゃないと適用されない感覚があります。うっかりにもほどがあるだろとか、そこまでいくと過失じゃなく重過失といってもいいかもしれないというようなミスでさえ、かわいそうだから許してあげようよという感じなんです。

そして、ここまでいくとそれは惻隠の情というよりは、お互い様じゃないかとか、身内のかばい合いに近くなります。情けは人のためならずの劣化版ですね。
かわいそうだからというより、自分も同じへまをしでかすかもしれないから、お互い責めないでおこうといったユルイ雰囲気がインドネシア、といえば分かりやすいでしょうか。

もっと複雑になりますが、これに加えて「諦め(あきらめ)」の概念も入っていると思いますが、ここでは述べません。また別の機会に。

いかにも村社会的ですよね。日本人の感覚にもインドネシア人ほどではないですが多少は残っていると思います。
たとえば、土居健朗の「甘えの構造」で指摘された日本人の精神構造とか。

そして、当然といえば当然ですが、この親切心、惻隠の情は、社会的弱者や能力的に劣っている人を共同体として守る、相互扶助の考え方ととても相性が良いのです。

日本の社会は弱者の切り捨て、孤立化、いつ自分が負け組/弱者の側に回るかという不安感からくるストレスで、ぎくしゃくしている感じがします。
もとからあった自粛警察的な性質が、余裕のなさ、自信のなさにより、悪質になっているように見えます。もはやアラ探しだろというレベルです。

唯一の例外がマイルドヤンキーの集団で、わたしはマイルドヤンキーとの交友関係がないので主に書籍による情報になってしまいますが、精神的なつながり「きずな」による共同体の役割を持っているようです。
とてもインドネシアっぽいと思います。おそらく昔の日本であればあちこちで見られた地縁による共同体なのではないでしょうか。

インドネシアに来て、日本社会の処方箋になるかもしれないという事象を何度か見ましたので、次回以降にこの話の続きで、インドネシアの包摂*社会について書いてみたいと思います。

*Social inclusion(社会的包摂):社会的に弱い立場の人も残さず全員を社会に参画させるという考え。反対の概念は社会的除外(Social exclusion)

また旅に出るので、9月になってからになりそうです。





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