昔の投資先(旧カネボウのインドネシア子会社)を見学に行く
15年ぶりに元投資先の工場を見学に行きましたので、記事にしました。
わたしにとって一番思い入れのある投資先で、苦労は多かったですが成長もさせてもらえた青春の1ページです。
■ 投資した経緯と売却まで
今から15~20年前のジャカルタ駐在時代、ベンチャーキャピタルに従事していたわけですが、当時はスタートアップブームが起きる前で、プライベートエクイティー(PE)投資に軸足を置いていました。
2004年にカネボウが産業再生機構(IRCJ)管理となり、繊維業から全面撤退すると決まったときに、わたしは当時のつてをたどってカネボウインドネシアの会長にコンタクトし、彼とMBO*(マネージメントバイアウト)でIRCJからカネボウのインドネシア法人を買い取りました。
カネボウは繊維の子会社を2社インドネシアに持っており、そのうちの1社がKITM(Kanebo Indonesia Textile Mills)でした。
KITMは天然繊維の紡績、織布、染色、加工を行っており、ほぼ100%輸出。主な客はGAP、Limited Expressなどアメリカ中心で2割程度が日本のユニフォーム業者、当時はまだ利益を生み出せていました。
カネボウ本体が繊維をやめても、インドネシアで祖業の繊維(創業の事業の意でカネボウでは当時そのように言われ特別扱いを受けていた)の火をともし続けたいというのが当時の現地経営陣のモチベーションでした。
火曜から金曜が本業のVC、土曜から月曜がKITMを見る日々で、忙しかったですがその分成長させてもらった日々でもありました。
結局、2008年のリーマンショックが親会社の日本アジア投資を直撃し、せっかくうまくやっていたKITMを売って現金化しなければならなくなりました。
その時KITMを買ってくれたローカル企業グループがいまして、その社長の息子さんがバンドンに住んでいる関係で、久しぶりに見に行かないかと誘われた次第です。
■ KITMへの行き方
KITMはチカンペックにあります。ジャカルタから一番遠いところにある工業団地で、この場所であれば繊維でも外資100%を認めてもらえたから不便だったけどここにしたと聞きました。
バンドンとジャカルタのちょうど中間くらいです。高速を使ってバンドン市内から2時間ほど。
ジャカルターバンドンを結ぶ新幹線が通るルートでもあり、新幹線が試運転している様子を車から見ることができました。
■ 2009年にKITMを引き継いでから繊維をやめるまでの苦労話
KITMを買収したのは、繊維を中心に金融、不動産と事業を拡大してきたT&A兄弟です。80歳近いのでもう引退する年齢ですが、Aの方はまだ毎日会社に来ているらしいです。KITMを買収したあと、TIFICO(帝人のインドネシア法人)も買収して、そっちに基本いるとのこと。
KITMを見ているのはT&A兄弟のうちAの息子です。
当時は本当に頼りないお兄ちゃんで、いつも父親の後ろについて黙って言うことを聞いている感じの青年でした。まだ娘の方が剛毅なところが垣間見え、こっちが跡継ぎかもなと正直思っていたくらいです。
それが15年ぶりに会ったら、心なしか父親の面影を宿しており、眉間には深いしわが刻まれています。荒波を乗り越え、眠れない夜を何日も過ごしてきたであろう人間の風貌です。
人の好さは父親譲りで相変わらずでしたが、交渉をさせたら相当しぶといだろうなという雰囲気を醸し出していました。
彼のお父さんは粘り腰で相当しぶとかったですからね。
2009年にKITMの経営を任され必死に経営していたものの、利益なんてほぼ無いに等しいし、このまま続けても未来はないと思ったそうです。
繊維業を止めたいと株主でもある父親と叔父に相談すると、「まあそういうな、中央ジャワに移れば人件費も安くなるし、日系の工業団地にいるから諸々の費用も高いんだ」と言われ、翻意を促されたそうです。
インドネシアの繊維を始めた第一世代は年齢でいえば80歳前後で、みな苦労しながら繊維商から縫製、紡績、布織と手を広げ、それを主業にしながら、不動産業や別の製造業(日系とのJV)に乗り出していった人たちです。
彼によれば、繊維への思い入れが非常に強く、子供たちにも繊維業を引き継いでほしいと強く願いがちのようです。鳥かごに閉じ込められた鳥のようだったと言っていました。
俺は自由に羽ばたきたかったんだよ、分かるか?と。
彼は粘り強く父親と叔父を説得し、2015年5月にまず織布から撤退、2016年11月に染色加工から撤退、2017年12月に紡績から撤退しています。本当は一気に止められたのに、説得するのに3年もの年月が必要だったということです。
繊維から撤退した今は、サードパーティーロジスティクスに業態変更しています。顧客は8割近くが自動車産業、残りが電機です。
彼からインドネシアの繊維業の現状を聞きましたが、かなりひどい状態です。原材料や人件費は上がっているのに毎年値下げを求められ、儲けが出ないようです。
特にKITMがいるカラワン地区は、首長が大衆派で企業への課税と最低賃金の上昇に力を入れており、インドネシアで一番最低賃金が高い地域になっています。ジャカルタから高速で2時間くらい行った郊外の工業団地の方が、ジャカルタよりも最低賃金が高いなんて常識的に考えてありえないですよね。
日本でいう固定資産税がインドネシアにもありまして、基準となる土地評価額が決められているのですが、これも日本だと実勢価格より低いのが普通なのに、カラワンでは実勢価格の倍以上する評価額を決められ課税されているそうです。
■ 倉庫業をどのように拡大してきたのか
最初は2015年に織布ラインを撤去したスペースに近隣の企業の部材を置かせていたそうです。単純な場所貸しです。
徐々に他の部門も撤退してスぺースが空くにつれ、単なる場所貸しから部品管理を行うようになり、サードパーティーロジスティクスに変貌していきます。
意識して変えていったというよりは、客の要望を聞いているうちに勝手にそうなったんだろうなと想像しています。友人や仕事仲間から、「お前がやっているのって、いわゆるサードパーティーロジスティクスじゃね?」と言われて気づくみたいな感じです。
でも、なんで倉庫は他にもあるのに素人同然で、しかもまったく付き合いのなかったKITMを使うようになったのか気になり、ストレートに聞いてみたところ、「好きなときに持ち込め、好きなときに持ち出せる、融通が利くところ。」という答えでした。
最低ロットだとか最低期間とか言い出すと、じゃあいいですと言って他の倉庫に行ってしまうとのこと。KITMがそれをできるのは、自前で広々したスペースを持っているからだそうです。
社名は伏せますが、日本の大手企業は、最初は少ないスペースで始めて、気に入りどんどん拡大していっているとのこと。
おそらくだんだんと倉庫管理の品質を上げていき、KITMしかできないという状態まで持っていってから、最低ロットや期間の話ができるのだろうと思います。
■ 自動車産業に目を付けたわけ
これはたまたま自動車産業中心になっただけだろうと思いますが、他の産業だと競争が激しく、求められるものももっと高度なようです。
例えば、工業団地には森永もありますし、近くにはユニリーバもあるのですが、生活用品や食品のサードパーティーロジスティクスは今の力では無理と言っていました。
すいません。ここからはかなり立ち入った話になってしまい、ここでは書けない内容なので割愛させていただきます。いったん書いたんですが、全消しです。みなさんの参考になるような話もあるのですが、申し訳ありませんね。
自動車産業は繊維産業と違ってきわめて合理的で仕事がしやすいと言っていました。打合せは倉庫の中で立って行い、終わるとさっと帰っていくそうです。繊維は打合せの後は飲み食いをセッティングしないといけません。
■ 今後の彼のビジョン
上場したいと言っていました。投資するか?とベンチャーキャピタル時代のわたしに問えば、たぶんNoです。
が、今後どのように会社が発展していくかによって投資対象になるかもしれません。
倉庫業は投資対象としてはありです。わたしは米国留学後に日本アジア投資に出戻り、東南アジア事業の責任者をしていたのですが、物流業はインドネシアで有望な投資対象の一つとしてフォーカスしていました。
一つはラストワンマイルの物流で、もう一つはチルドです。2011年頃のフォーカスなんで、今なら違う結論になると思います。
ラストワンマイルというのは、当時倉庫はありましたが、最後消費者の家に届けるまでの物流が不足していたのです。日本でいうクロネコヤマト的な物流会社が伸びるはずだと仮説を立てていました。TokopediaがVCから金を集めて、インドネシアでもイーコマースが増えると言われていた時期です。
JNEという会社に目をつけ投資したいと思いVC資金を使っていかに成長を早められるか、日本の物流業者を紹介するから一緒に新しい技術を導入しようと提案していました。
結局、GrabとGojekがこのマーケットをとっていきましたね。さがしていた2011年にはすでに創業していましたが、事業開始はまだで、わたしは発見できませんでした。
チルドは、国が豊かになると乳製品の消費が増えてきますが、乳製品の温度管理は実は非常に難しいんです。冷やすだけであれば極端なことを言えば凍らせればいいわけです。停電で溶けようが多少の温度変化があろうが腐るところまではいかない。
ただ、チルドは6~8度で温度を一定に保たないとならず、それを倉庫、輸送トラックと一貫して管理しなければなりません。この物流網が今後必要になり、先に整えた会社がシェアを押さえると考えていました。まずは面を押さえて客を押さえるのが重要で、そこから日本の技術を使って品質を上げていくのがいいだろうと考えていました。
なので、面を押さえているのは誰だと思い、一生懸命探していました。実際は現地にいるローカルスタッフに探してもらっていましたが、見つからなかったです。
日本食スーパーのパパイヤは自前で作り上げていたくらいで、他に頼めるレベルに到達している会社が当時はなかったんです。
倉庫業は装置産業ですから資本がものを言い、最後は資本力がある者が勝つ世界です。彼もそういう厳しい世界に入ってしまったわけなので、もう最後まで走り続けるしかないです。
サードパーティーロジスティクスでのし上がるには、やはり上顧客をしっかりと抱え込み、顧客の要望に柔軟に答えながら自社のサービスレベルや品質を上げていくほかありません。
彼からいまの会社をどう思うか率直な意見を聞かせてほしいと言われ、「自動車産業を狙ったのはよい。あと10年はいけるだろう。日系企業を狙ったのもよい。彼らは信用を大事にするから価格が高すぎなければ使い続けてくれる。あとは規模を拡大し続けるだけになるので、どこまでやるかだ。」と答えました。
彼は倉庫業から別の事業にも展開したいと思っているようなので、そこから先はちょっとわからないです。
いろいろなことに挑戦していきたいと言っていました。
■ メイン画像の写真について
写真は昔の正門から工場をながめたところで、本当は右手に本社棟があり、植栽できれいに整備されていた場所です。いわばメインストリートです。
建物前のポールだけが残るシュールな構図になってしまいました。
正門を閉じて使えなくし、本社棟は解体し、正門横の警備室やモスクもあれるがままにしています。
MBOの記念に、当時の日本アジア投資の社長だった立岡さんと一緒に植樹した木も、生い茂った草木の中に埋もれてわかりません。
”夏草や つわものどもが 夢のあと”という芭蕉の句が頭に浮かびました。
明らかにそっちの方に行かせたくないんだろうなという感じだったので、なんか変だなと思っていたら、こういうことだったんですね。
なんでこんなことしたの?と聞いたら、プレマン(インドネシアのやくざ)が金をたかりに毎日押し寄せてくるので、会社がうまくいっていないと見せるため、正面を荒れ果てた状態にしたのだとのことです。
工場の裏手に新しいゲートを作って、目隠しに廃屋をそのまま残した状態で奥に新しくきれいな本社棟を建てています。
インドネシアで風水上このまれる土地の形状は口を閉じた大きな袋です。つまり道路へアクセスできる箇所は狭く(口を閉じた部分)、その奥に広大な土地が広がる(残りの袋)のがよい形と言われており、シャープの旧インドネシア本社工場(プロガドゥンにあり現地企業に売却済)もこの形状でした。
外からは中の様子がわからないようになっており、自然とプレマンや盗難対策になります。
インドネシアで事業を行うのも大変です。地方政府やヤクザといったたかり体質の連中に加え、だまそうとする奴らがそこら中にいるハンディーを背負って、事業をのばしていかないといけないのです。
彼から長時間話を聞いたおかげで、過去の記憶の断片が次々と浮かび上がってつながっていく感覚がありました。
人手に渡った時点でどうなろうが文句は言えませんが、ほろ苦い気持ちになりました。
ただ、ここから一人の有望な経営者が育ったことを考えれば、少しは浮かばれた思いです。