学習規律の“物語”
先日、「学習規律」に否定的な立場から書かれた文章を見かけました。
学習規律そのものにまつわる議論は非常に入り組んだものになりがちですし、時に当人同士が自前のサンプル(場合によってはn=1)を盾に論陣を張りますので、なかなか難しいんですね。
ただ。ただですよ。
取り上げている「学習規律」とやらの捉えが異様に狭い感じを受けますし、当の文章はそもそも大きな間違いを犯している、というのが私の見立てです。学習規律が目的として設定/運用されているという誤解によって書かれた文章であり、それは同時に、筆者が学習規律を目的的に運用している、そしてその目的は未だ果たされていない(そもそも“無の目的”な訳ですが)ことを示しています。大変に残念だなと思いますし、その誤解のままこの仕事を続けていくのは苦しかろうとも思うのですが、筆者に対して私ができることはありません。同じ職場に勤めているわけでも、(おそらく)同一の自治体に勤めているわけでもないので、物理的な接点は生み出しようがありません。
そして何より。筆者はおそらくですが、現行の学校教育のシステムに対して強い懐疑と不満と反発、概して敵愾心をもっており、その“物語”はすでに強固にできあがっていると思われるからです。
「今の学校教育現場/システムはダメだ。」という“物語”。
改めて「学習規律」について考えます。当の文章をまだまだ擦りながら書きます。
筆者は、
の3点を挙げて、学習規律は「無ければ無いほど良い」と主張します。さてと。
①規律とエネルギーはトレードオフなのか
規律を守ること、規律を意識することにエネルギーを使ってしまい、学習に気持ちが向かなくなる、という主張です。
では、規律があまり設定されていない、細かく強制されていない教室では全てのエネルギーが学びに向くのか、という極端な例で考えてみますと、これはこれで「そうはならんやろ」が発生するわけです。
学習規律は、授業/学習中の行動基準として作用します。規律を守ることで、「自分は基準から外れていない。」という安心感をもてる場合もありますし、その安心感は“学びへのエネルギー”へと直結することが往々にしてあります。また、個人の学習権を守るためにも規律が要求される場合があります。個人から集団へと拡大していけば「自分たちはルールを守って頑張っていける集団なんだ。」という自己有用感に近い感覚をもつことができます。
規律は規律として、そして道具として運用していく必要がありますが、その視点が欠落すると「守らせることに注力」してしまい、筆者の危惧するエネルギーが削がれるという状況が簡単に発生することになります。学習規律そのもの、というよりも、目的的運用が問題なのです。
②評価主体は誰なのか
規律を守ることや、守っているかを見ることに注力すると、例えば研究授業等の事後研や協議でまず規律が守られていたかどうかについての発言が出て評価が歪んでいくのではないか、という主張です。
まず、研究授業等の事後研や協議で、児童の姿勢や規律について話が出るのは「発言者にとってそこしか褒める/言及するところがなかった」か「発言者の授業を見る視点が弱い」かのどちらかです。
“学び手”、要は学習者を評価するのは誰でしょうか。第一義的には授業者です。授業者は「あの子、最初は規律を守れてなかったのに最近いいじゃん。」「休み明けから規律がちょっと崩れてきたな。」と“学級の状況として”モニタリングすることを通して、学級経営の方策を逐次微調整していくことができます。単純で大雑把な“締める”とか“緩める”の方針を決定する上でも重要な尺度です。そう、規律はあくまで尺度、バロメータとして道具的に活用していくことが必要なのです。
また、評価主体を「散発的にしか参観できない外部者」に明け渡したり、外部者の評価を過大評価して受け取ったりすることの危険性は無視できません。
あくまで第一義的評価主体として授業者、担任が存在すべきなのです。評価を歪めるのは授業者ですし、歪めないのも授業者なのです。歪みねえ評価は、その学習者一人ひとりに対してより良い学習機会の提供を可能にします。それはまた、個人の学習権の保障につながっていきます。
③目的的な、あまりに目的的な
①と②で共通して私が述べたのは、学習者の学習権を守ること、そして規律はあくまで道具として活用すること、の2点でした。
さて、筆者のように「そもそも学びの営為に規律は存在しない」という立場を想定すると、授業などの学びの機会に持ち込める道具が一つ減ってしまうことになります。一体何を使って授業を運用していくのでしょうか。私にはとんと見当がつかないところです。
ただ、当の文章ではこの3つ目の主張で語られる例示が著しく破綻しています。筆者の中で「集団に対して適用される規律=完全な悪」という“物語”(図式というより物語です)が強固に成立しており、学習権保障も道具的な規律運用の視点も入り込む余地がありません。筆者からは「道具的な規律の設定/運用/適用」の視点が全く欠落しており、ただただ「汝は学習規律、罪ありき」なのです。
まあ、教職に就いて3年目らしいので仕方ないね! マエダもそうだったでしょ? うん多分……。
ここまでが前半です。筆者は続けて、
と述べて後半が始まります(先に述べてよ、と思ったり)。
後半の主張のメインは、「年度当初は学習規律規律を徹底し、その定着度を見ながら徐々に規律を減らしていくのが理想」というものだったり、「自分は『全ての子どもが人生の主人公になる』ことを目指しており、そのためには学習規律を意図的・計画的に指導していく必要がある」といったことが続きます。前半と後半の温度差がすごいですね。風邪ひくわ。まあ、「学習規律が目的として設定/運用されているという誤解」は解けているようなのでいいか。
というか今まで特に意図とか気にせずにやってたんでしょうか。教員3年目ってそんなもんかな。うん、マエダも多分そうだったよ。
結構規模の大きい学校に勤務しているようですが、そもそもあらゆる教育活動には明確な意図を介在させねばならない、ということを周囲は教えてこなかったのでしょうか。その点が心配です。
前出の「全ての子どもが人生の主人公になる」は筆者がたびたび述べていることで、要は子どもが主体性を発揮して学校生活を生き生きと送ることを目指している状態を志向しているのです(どうやって測定するのかは不明ですが)。しかし、筆者の中では「子どもを主人公にするためには、現在の学校教育システムが大きな阻害要因になっている」という“物語”が根を張っており、冒頭の「学習規律は無ければ無いほど良い」という主張につながっています。
主体性。この難しい問題に筆者が真っ向から取り組んでいることについては眩しく思います。学校教育現場に対する違和感を自分なりに言語化して表明できるのも、今の若い世代の強みと捉えることができます。しかしながら、当の主体性を子どもにばかり求めているように見受けられるのが気がかりです。「若いから、経験が浅いから、まずは言われたことをやる。」という姿勢は主体性から距離を置いたものであり、一見無意味に思えるような学習規律に対して何らの意味も見出そうとせずにいるようにも見えます。筆者の心のうちに巣食う“物語”を、私は読んでいるのかもしれません。
これまで、私のXアカウントで筆者のことはいろいろ言及してきました。「ここ最近の文章に関してはちょっと看過できないなあ。」と思いつつも、「でも私がなんか言ったところでなあ。」というブレーキがかかっていました。
しかし結局は、学習規律というどでかい要塞のような話題について、少し自分の考えを整理しておきたい、今後の自分に対する「自戒の碑」を建てておきたい、と思いながら以上の文章を書くに至りました。
本文を引用しているので、末尾に当文章のリンクを掲出します。
さて、私のこの文章が当の筆者に届くのかはさて措き、学習規律についてはもっと丁寧な思考/志向/試行/施行が必要であろうと考えます。一定の規律を強いることと、子ども一人ひとりの学習権(人権)を守ることは両立しなくてはなりません。そして両立できるはずだし、先人たちは両立させようと苦心してきたはずです。
そして。
学びの機会の保証は、規律という単一の軸で語られる話ではありません。多様な軸を見出しながら模索することこそ、私たちが職業上背負った宿命なのだろうと思います。
……筆者は当文章の翌日、つまり昨日(7月14日)には、「秩序と児童の主体性を両立した授業を目指すために」という趣旨の文章を書いており、そこでは赤坂真司氏の著書を引きながら学級経営を一番大きな土台とする必要性が強調されていました。筆者は一体どこに行きたいのだろう、と首をひねりました。
……ちょっと控えめに言いました。椅子から転げ落ちました(2回目)。
しつけ、秩序、学習規律、学級のルール、この辺りのことが筆者の中では明確に分けられているのだろう、独立した概念なのだろう、と考えられます。「ヒドゥン・カリキュラム」という言葉もずいぶん浸透したんじゃないか、と思っていましたが、そうでもないのかもしれません。
しつけ、秩序、学習規律、学級のルール、エトセトラ、エトセトラ……は結構切り分けの難しい概念であり、一体化したものとして捉えていく必要があると考えています。しつけはきっちりやって、秩序は明確に確立し、でも学習規律は“無ければ無いほど良い”というのは、正直ズレていると思うのですが……。
ともあれ、私にできることはこうやってひっそり文章を書くことだけです。届いたとて、響くのか。