眠れない夜(兄より)
東京に住んでいるかぎり富士山は西にあるけれど月はいつも違う方角にいる。
雪がすでに降っているようにおもえる。常に降り積もっている。正月の静けさを求めている。日常が素晴らしいと、このところ皆が言っている。悪い兆しに疲れてしまっている。
金木犀というなまえは金、木、水、と時間が戻っていくさまを思い起こさせる。秋のなかにいてどこか別のしかも過去の具体的でない何かの記憶を呼び起こそうとしてくる香りのムラを特にわたしたちは美しいと感じて、すれ違うたび鼻から思い切り空気を吸い込んでそれを掴み取っておこうとやけになっている。
すべてが自分だということを忘れてはいけないと何度でも言う。散骨されても言い続ける。夜になると冷たくて素足ではもうキッチンには立てない。汚いスリッパは捨ててしまった。横になってばかりいたら腰の筋肉が削げ落ちていつもより多く歩くと痛くなってしまうけど年末に東京タワに階段で登りたいのでそれまでにリハビリをする必要がある。
ずっと一人でいたのに突然結婚することは難しいし何ヶ月も働いてないところからフルタイムの正社員を始めるのもむずかしい。少しずつ体を慣らしていかなければならない。人との付き合いから、簡単な短時間の仕事から、始めて徐々に元どおりになっていきたいし、少し先にも進みたい。蝶の写真を撮って、拡大して蝶を観察しているとこれまで蝶の羽のことを蝶だと思っていたということに気づく。羽と羽をむすぶ真ん中に身体があると改めて知った。だからあの部品は蝶つがいというのかと気付きを得たけど調べたらよくわからないけどシンプルに蝶のつがいということで2つで1つの部品だからそういうことらしい。虫のことを考えるのはやめた。
はやくキュウリが安くなってくれないとスーパに行く気も起きない。キュウリが値上がりしたせいでみずみずしい物を食べる機会がなくなってしまった。たまにスカスカのキュウリがある。スカスカのキュウリにあたると、昔働いていたところの近所にあったものすごくおいしいパン屋に行くとたまに買える焼きたてのオリーブのパンのことを思い出す。おなじ食べ物とはおもえない。ということだけで思い出してしまう。
男女がこのアパートのどこかの部屋にいてこんな時間までごそごそと物音をたてている。詳しいことはわからない。ベッドの下にある収納のことを考えている。せっかくIKEAで買ったのにでかい虫が寄ってくると聞いて下着の引き出しにしまい込んでいたバニラの巨大なキャンドルとポプリをいつ引き出しから出そうかタイミングを見計らっている。それからわたしは毎日自分の名前を呼ばれなくて、忘れてしまいそうだった。だから混乱した。剣道の面を被ったことが一度もないのにあのアミ越しの風景を見たことがあるような気がする。きょう2年ぶりにカメラを使い始めた。人間の様子をとりたいと思っているのに人間は特にいないからひびわれたベランダの水色の床に枯れた木と銅管エルボを置いて写真を撮った。それから洗濯機の上に銅管エルボを置いた写真も撮った。もう銅管エルボの写真は撮りたくないし眺めるだけでいい。手が金属のにおいになる。
字が赤く見える。眠いから。
すごいジョーズみたいな口のでかい鮫のほねを見つけたよ(兄より)
兄はいない。
2017/09/26
✴︎ ねるねるねるね