
シン・エヴァはネタバレより感想が怖い。観た感想に自分の人生が宿る写し鏡の映画だった
『シン・エヴァンゲリオン』への感想は、実は自分の人生の感想なのかもしれない。
ぼくは観終わった後、ふとそう思った。
『シン・エヴァ』は傑作だ。エヴァと共に歳を取って、最後にこんな素晴らしい作品に出会えたことに、ぼくは製作者の方達に感謝してる。
ただ同時に庵野監督がおそろしい映画を作ってしまったことに怖くなった。
なぜなら感想にその人の人生が透けて見えるから。
もし、この映画を見て、「素晴らしい、ありがとう」と言えた人は、きっと社会で大人の責任を受け入れて戦ってる人だろう。
一方、ネットで、「オレらのエヴァは終わった。エヴァの葬式だ。庵野は堕ちた」と怨嗟(えんさ)の言葉をつぶやいてる人は、たぶんこの26年間で大人になりきれなかったと思う。
ネットで賛否両論の感想がうずまくのは、監督の脚本のせいではない。
『シン・エヴァ』がテレビ放映から26年かけた監督と観客の人生に答え合わせになってるからだ。
公開から7日経ってネタバレと感想が出回った頃なので、この記事では『シン・エヴァ』と観客の感想の関係について、ぼくなりに頭をひねって書いてみた。
『シン・エヴァ』は怖い。子どもから大人になることを説いてるからだ。
でも間違いなく素晴らしい作品であり、一人ひとりがこの世界を一緒にいい世界にしていこうというメッセージがあると思う。
ではどうぞ。
(すみません、ここからはネタバレ全開です。未見の方はご注意を)
26年間のエヴァンゲリオンとはなんだったのか?
テレビ版放送開始から26年かけてたどり着いた『シン・エヴァンゲリオン』とはなんだったのか?
ぼくの観た感想は、シンジくんの成長物語だった。
シンジの成長とは、他人と自分の間に居場所を見つけることである。
「自分の居場所」ではなく、「他人と自分の間の居場所」がポイントだ。
今回はどこを切り取っても子供から大人になる物語であり、みんなの成長にハッとさせられる。
前半の第3村ではトウジが28歳の医者になって登場し、アカリと結婚して、子どもがいる。
ケンスケはなんでも屋をやっている。
村の中でそれぞれ自分のやるべきことを見つけ、役目を果たしている。
アスカは村の人と交流しないけれど、自分の役目はネルフからみんなを守ることだとハッキリ言う。
到着直後は無気力だったシンジも、ケンスケから村の中で一人の少年を紹介され、『Q』の序盤で自分を突き放したミサトさんの想いにも気づいていく。
だから後半にシンジはヴンダーとエヴァに乗り、人類補完計画を起こそうとたくらむ父・ゲンドウとの対峙を選ぶのだ。
自分がまわりの人のためにできる役目は、エヴァに乗って父親を止めることだと気づいたから。
『Q』の時は、いきなり14年後の世界に飛ばされて「ハア!?」と思ったけれど、ようやく腑に落ちた。
舞台が第3新東京市のネルフ本部や学校のままでは、エヴァは終われないのだ。
なぜなら大人になった私たちは、もう中学生の物語に共感できないから。
今さら私たちが26年前の学校に戻っても、自分の机もロッカーもない。
社会に出て、自分の居場所を見つけないといけないのだ。
34歳になって見直して気づくエヴァTVシリーズ・旧劇版の幼稚さ
今回『シン・エヴァ』を見るために、ネットフリックスでテレビ版と映画版を見直してみた。
驚いた。中学生の時にレンタルビデオで見た時は気づかなかったけど、エヴァのキャラはみんな幼い。
誰もが他人をわかろうとせず、ありのままの自分の気持ちを認めてくれと叫んでる。
半強制的にエヴァに乗せられ、何度も乗らないと駄々をこねるシンジ。
自分を認めてもらいたくて、他人にマウント取るアスカ。
父親の復讐のために使徒を倒そうと、他人に自分の望みを押し付けるミサトさん。
自分を唯一受け入れてくれたユイを生き返らすため、ゼーレやネルフを騙して、壮大な計画を仕込む碇ゲンドウ。
子どもの頃は、ロボットのカッコよさ(正確に言うと人造人間)や、散りばめられた謎にハマってたけど、今見るとストーリーとキャラにクエスチョンマーク全開である。
特にゲンドウ!お前、一体なんなんだ!
やけ起こして人類補完計画なんて迷惑な計画仕込む前に、ネルフのまわりの人間に「嫁と死に別れて辛いんだよね」と相談しろ。
近くの人に弱みを見せるのが無理なら、第3新東京市にあるキャバクラに行って、愚痴でもこぼしてこい!
『序』を見直してたら、夜の街の看板に「ネルフカードOK」ってあったぞ!
あのオッサン、コミュ障にも程がある。
と言ったけど、ごめんなさい。ぼくも恥ずかしながら10代の頃は、この話がカッコいいと信じてハマった一人である。
10代だった自分をシンジに重ねてたからだ。
あの頃は中学校など強制的な環境に押し込められてた。だから無理矢理エヴァに乗せられるシンジに共感できてたのだろう。
まだ自分が何者かもわからなかったので、エヴァに乗る主人公にもあこがれてた。
でも30代にもなれば、自分に特別な才能などないとわかる。
エヴァパイロットにも選ばれないし、世界の終わりもこない。
だけど、ぼくらは生きているので、この世界で居場所を持たないといけない。
その居場所の作り方を、テレビ版と旧劇場版では答えてなかった。
でも今回の『シン・エヴァ』にはその答えが、いろんなキャラクターに描かれてたと思う。
エヴァのパイロットになれなかった相田ケンスケの自分探し
個人的にもっとも印象が深かったのは、エヴァに乗りたいと言っていたケンスケだ。
テレビ版を見返すと、「碇はエヴァに乗れていいな」と話しかけ、ミサトさんにはパイロットにしてほしいと玄関で頭を下げる。
【引用:貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン 2巻』】
彼も旧作では「これが欲しい!」という気持ちをむき出しにしている。
しかし驚いたことに、『シン・エヴァ』でケンスケは28歳になり、第3村でなんでも屋として働いていた。
あんなにエヴァに乗りたいと言ってたメガネの中学生が、である。
劇中で28歳のトウジはシンジに言う。
「ニアサー(ドインパクト)で大変だったけれど、あいつのサバイバルスキルにだいぶ助けられた」と。
なぜ彼がエヴァのパイロットをあきらめ、村のなんでも屋の自分を受け入れられてるのか?
それは自分のサバイバルスキルが役に立って、他人から感謝の言葉を言われたからではないだろうか。
その経験のおかげで、きっとケンスケはエヴァのパイロットになるよりも、もっと大切なことに気づけた。
ぼくはここに、「社会に出てから他人との間に居場所を作る方法」が隠されてると思う。
エヴァに乗れなかったケンスケを負け犬と見るか、第3村で立派に働く大人と見るかで、自分の社会経験が出てくる。
自分の社会に出てからの居場所探し
個人的な話になって申し訳ないのだけれど、ぼくは早稲田大学に行きたかった。大企業や公務員で働きたかった。
しかし、たいした努力もせずに大学受験に失敗して滑り止めの大学に入り、新卒で入った会社は激務で1年半で辞めることに。
その後に公務員試験も失敗して、25歳の頃に言い訳の効かない無職になった。
恥ずかしい挫折をした後にようやく気づいたのは、親や親戚、友人から認めてもらいたくて受験し、就活して、公務員試験を受けてたことだ。
まさに父親に認められたくてエヴァに乗るシンジくんである。
ぼくは世間体を気にして、自分のやりたいことに言い訳ばかりしてきた。
本当の自分がやりたかったのは、大学生の時に見つけた海外に住むことだったのに。
25歳無職で落ちるところまで落ちた後、ぼくは腹をくくった。情けないけど、ぼくは他人からどう見られても、自分のやりたかった海外に行こうと。
その海外に行くワーホリ準備をする途中で、ぼくはネットで発信するスキルを覚えた。
そして縁とニーズがあったので、現在は台湾観光を中心に発信するブログを7年間とYouTubeを2年間やっている。
コロナ前はありがたいことに、日本の旅行会社や台湾の地方政府から仕事をもらってた。
ただ、好きなことをしてるように見えるこの仕事にも苦労はある。アンチは寄ってくるし、コロナ禍で収入は激減してる。今はボランティアに近いので辞めたくなる時もある。
でも今も続けられてるのは、自分のスキルで誰かに役立てることを実感できてるからだ。
旅行者に直接会ったり、YouTubeのコメント欄で、「あなたのブログやYouTubeのおかげで、楽しい台湾旅行になりました。観光再開する時を楽しみにしてます」と言われる。
嬉しかった。25歳の時に無職になった自分だけど、34歳の今はやっと自分の居場所が見つかったと思う。
人からよく見られる肩書きがほしい、好きなことをやりたいとわめいてた10〜20代のぼくは、30代になってやっと理解した。
誰かの役に立つことで、社会の中に自分の居場所が作られるのだ、と。
今作ではケンスケだけではなく、トウジやアカリ、アスカ、レイ、ミサトさん、マリ、そして逃げていたシンジも自分の役目と居場所を見つけている。
きっと庵野監督がこの脚本を書けたのは、この26年間で他者と自分との間に居場所を見つけられたおかげではないだろうか?
庵野秀明監督が見つけられた他人と自分との間の居場所はどこにある?
庵野監督が見つけられた居場所はどこか。
お嫁さんの安野モヨコさんやカラーという会社の中で、庵野監督は他者との間に自分の居場所を見つけたのだと思う。
『監督不行届』や『よい子のれきしアニメ おおきなカブ(株)』を見ると、苦労もたくさんあったようだけど。
特に安野モヨコさんと出会ったおかげで、「社会の中の庵野秀明がやるべきこと」を見つけられたようだ。
いろんな人が言ってるけど、今作で庵野監督がやりたかったことは、安野モヨコ著『監督不行届』の庵野秀明インタビューで書いてあると思う。
嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしてないとこなんですよ。
〜中略〜
嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。
〜中略〜
現実に対処して、他人の中で生きていくためのマンガなんですよ。
嫁さん本人がそういう生き方をしてるから描けるんでしょうね。
『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されてたんです。ホント、衝撃でした。
アニメを見て現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなアニメ。
庵野監督はテレビシリーズと旧劇場版では、その仕事を放り投げている。
たぶん、自分の作りたいことを優先させた結果なんだろう。
あのテレビ版の後半は見るものを混乱させ、旧劇場版のラストでは唖然とさせ、アニメで社会現象を巻き起こした。
映像はすごかったけれど、あれを見て仕事を頑張ろうと思える人は少ないと思う。
引きこもって、世界なんて崩壊すればいいのにという人から好かれそうだ。
だから庵野監督はもう一度、自問自答したのではないだろうか?
自分の持ってるものがアニメ作りの才能で、それを「社会にどう使うか?」を。
ぼくは『シン・エヴァ』を見てやっとわかったが、庵野監督は新劇場版シリーズの制作時点で、すでに自分の役割をわかってたのだ。
序の時に発表された宣言にこう書いてある。
最後に、我々の仕事はサービス業であります。
この言葉に集約されてると思う。
【引用:ねとらぼ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2011/21/news008.html】
まとめ
この映画は26年間分の監督と観客の答え合わせである。
テレビ版の放映が始まった1995年から2021年の26年間で、庵野監督と自分たちがどう生きて、社会のどこに居場所を見つけられたか。
その人生のフィードバックが今作だ。
テレビシリーズと旧劇場版が「居場所がほしいとさまよう物語」なら、新劇場版は「すでに持っているもので居場所を作る物語」である。
前者が子どもの物語で、後者は大人の物語だと思う。
それがつながっているので、エヴァはシンジの成長物語だ。
ただ観客は、いくらアニメを観てもそれには気づけない。
ぼくらが画面の外に旅立って、他人とぶつからないと、理解できないからだ。
たとえば、彼氏彼女ができたら幸せになるか?と質問されたら、いたことがある人は全員「NO」と答えるだろう。
彼氏彼女はモノではなく人間で、一方的に幸せを与えてくれる存在ではないからだ。
自分が先に相手のことを思いやらないとケンカばかりで長続きしない。
自分の持っているもので、先に相手に何ができるか。
どんな仕事も、職場も、家族も、子育ても、街も、社会もそうだと思う。
言葉で要約すれば、「愛」とか「思いやり」なんだろうけど、身体で覚えるのは本当に難しい。
あの時はできても、この時はできないってこともよくある。
偶然だろうけど、『シン・エヴァ』のすごさと怖さは、その答え合わせを監督と観客が26年かけてやったところにあるとぼくは思う。
だからこのストーリーは、見る側の私たちの26年間分の人生経験によって、「面白いか、つまらないか?」の感じ方が違うのだ。
そして、その答えがわかったから、エヴァンゲリオンは26年越しにようやく終わる。
「さようなら。すべてのエヴァンゲリオン」
ぼくらの世界を救えるのは、選ばれた者だけが乗れるエヴァンゲリオンではない。無数の人が発する他者への小さな思いやりだ。
最後に
庵野総監督始め、関係者の方々、本当に素晴らしい作品をありがとうございました。
コミックの2巻の巻末であさりよしとおさんが、「エヴァを最終回まで口に入れて、まずかった時はちゃんと言いましょうね」と書いてあったのを思い出して、この文章は書き始められました。
【引用:貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン 2巻』】
ぼくが中学生の時にレンタルビデオで観た旧劇場版の最終回は「まずかった(意味わからなかった)」ですが、34歳で観た新劇場版の最後は「美味しかったです(最高!)」でした。
この作品が一人でも多くの人に届き、現実世界で疲れたエネルギーを充電できますように。
そして観客が現実世界で戦う力になることを願ってます。
自分も今は大変だけど、待ってくれる人のためにがんばります。