見出し画像

「聞き上手」になったつもりでいる、コミュ力が無いみなさんに向けて。

こんにちは、みらいろです。
ちょっと激しめのタイトルにしました。ごめんなさい。

今日のテーマは「コミュニケーション」について。いろいろな人とやりとりする機会が増えて、思うことがたくさんあるので、ちょっと書いていこうかなと。

人類を大まかに二分すると、「話すのが好きな人」と「聞くのが好きな人」に分かれる。

ぼくが思うに、「話す人と話す人」そして「話す人と聞く人」というペアは相性が良いのだが、「聞く人と聞く人」と言うのは、どちらか片方のコミュ力が高くないと地獄絵図になってしまうのではないか。こんなことを昨日思ったので、少し考察を入れてみる。

コミュ力とは

まずコミュ力についてだが、ぼくの思う定義は、いつかの記事で書いたように、「人と信頼関係を構築するまでの時間」が短い人ほどコミュ力が高いというもの。

基本的にコミュ力は、会話によって測られることが多い。

会話には3つの要素があると思っていて、

  • 相手への興味

  • 会話のテンポ感

  • 会話の生成

で成り立っている。

昨今のコミュニケーションに関する潮流は、会話生成至上主義であると思う。どんな記事やビジネス本を読んでも、「とにかく質問をしろ」「質問上手になれ」ということが書かれている。全くもってナンセンスである。

質問上手であると言うのは、非常に重要な要素の1つではあるが、それは会話としては成り立っていない。相手から情報を引き出しているだけの泥棒である。話すのが苦手だから、聞き役に回れと言うのは、一種の対症療法ではあるが、それは会話上手とは言えない。

なぜなら、会話における他の要素を全て無視しているからである。

「相手に興味を持て」というのは、案外難しいのかもしれない。人と関わることが好きでない人であれば、なぜわざわざ見知らぬ人に対して興味を持たなければならないのかという反論が聞こえてきそうだ。

ぼくが言っているのは、「興味を持つふりをしろ」と言う意味である。興味がなくても、相手に気持ちよく話してもらえるかどうかで、こちらの印象が変わるものだ。

僕のコミュ力の定義は、人間関係をいかに早く作れるかと言う部分にフォーカスしているので、相手の印象を操作することも技術のひとつとしてカウントする。そう、技術である。

対人関係がうまくいく方法があるなら、それを使えばいい。ゲームの攻略法を知っているのに、わざわざ地道に遠回りする人はいないだろう。よっぽどのオタク君しかいないはずだ。

そしてもう一つが「会話のリズム感」である。これも、相手に気持ちよく話してもらうための要素のひとつだ。

モテる男は、女の子の話を聞いてるようで聞いていないと、言われることがある。要は、相手が気持ちよく話せている分には、どんな相槌を打ってても問題ない。極論、相手の話の内容を聞いているか、聞いてないか、なんてどうでもいい。

なぜなら、「相手のリズム」で、「相手が話したいこと」を話してくれているからだ。つまり、話している側の人が気持ちよくなれているという事実がそこにはある。

一見、さきほどの「相手に興味を持て」と言う原則と矛盾するように思えるが、相手に興味を持っている人と持っていない人では、相槌だけではなく、会話生成の質問のクオリティーにも差が出る。

また、相槌だけではなく、いじることや、いじられることに対しても、テンポの果たす役割は非常に大きい。お笑い芸人のコントやネタを見ればわかるが、笑いのプロはワードセンスだけではなく、”間”も極めている。

笑うこと、つまり楽しいと言う感情に直結する部分に対しては、会話のテンポがいかにスムーズで小気味いいかという部分が大きい。文字に起こしてみたら、一般人の会話などつまらないことの方が多い。でも、それは会話と言う流れの中で見ると、笑えてくるのだ。

「聞く人」と「聞く人」

では、本題である「聞く人と聞く人の会話」について考察していこう。

聞く人と言うのは、基本的に話すのが苦手な人が多い。自分のことを教えたがらない、自己開示をしたくないタイプの人である。

では、こういった人たちがどういう戦略を取るのかと言うと、相手にできるだけ多く喋らせるというもの。相手に喋ってもらえば、自分で多く語る必要は無いから。

しかし、聞く人というのは、必ずしも聞き上手とは限らない。

例えば、質問を投げて、もっと会話を掘り下げるべきときに「そうなんですね」とか言って適当な相槌を打ったり、無限に質問してインタビューをしてしまう人だったり。

なおさら地獄なのは、お互いがお互い、自分のことを話さないばかりに、質問の交換パーティーになってしまうことだ。おそらく、質問に対する返事よりも、質問そのものの文字数の方が量が多い。

その他にも、聞かれたことだけに「はい」とか「そうです」と返答して、付加情報を返してくれないとかいう場合もある。

非常に聞き苦しい会話である。

ぼくは「他者に対する興味」の欠落が根本の原因だと思う。

自分が他人に興味がないばかりに、相手への質問に現れるばかりか、自分に向けられた興味に対しても鈍感になる。脳の信号がそのように最適化されることで、会話というものすら満足にできていないという現実があるのではないか。

また、他者に対して興味を示すことが、踏み込んだ質問をすることが、何か失礼にあたるという先入観があると、どうしても1歩引いてうわべだけの会話をしてしまう。そして、他者への興味のなさと言うのは、相手にも伝わるものだ。その興味のない状態で、質問をされても、自分のことを教えようとは思わない。

質問と言うのは、こちらが相手に何を喋らせるかというのを方向付ける唯一の手段である。うまい質問というのは、相手の話したいことを聞いてあげることだ。それなのに、自分が話したくないという事ばかりに気をとられて、よくわからない5W1Hに従った質問をするというのは、いささか疑問である。

聞く人同士の会話は、テンポも悪い。なぜなら、お互いが常に、「次は何を聞こうか」と考えているからだ。会話の波に乗らず、深海の中を右往左往している人が大多数だと思う。だから、いまいち盛り上がりにかける。

コミュ力の高い聞く人がいれば、場の空気を読んで、会話の主導権を握る。あまり話したがらない人に対しては、相手の発言量を徐々に増やすように、簡単な質問や感情の指摘、いじりなどによって、相手の反応を引き出す。そして、相手が話しやすい雰囲気を作ってから、会話を始める。

ただ、そんな人には滅多に出会うことがない。

コミュ力、コミュ力と騒がれ始めて、もう何年経っただろうか。この曖昧な言葉に踊らされた会話生成至上主義の犠牲者たちが、これ以上増えないように祈って、本記事を終わる。

いいなと思ったら応援しよう!