合法メンヘラ女の軌跡5

〈急性期病院 一般病床編〉


こうして一向に進展が見えない絶望的な現実と痛みに悩まされること1週間ほど、ようやくICUから脱出できた。
しかし、これは私の病状や麻痺の状況が改善したからではない。相変わらずAⅮLは全介助であるうえ、1週間まともに寝ることも食べることもできていなかった。絞り出してやっと述べることができる進展はトイレでの排泄のコツを掴めてきたことだけである。
そして、一般病床に移ったからこそ抱えることとなった悩みもあった。それは、自分が負った病と障害に向き合う時間が更に増えたこと、そして同室患者や看護師との接点が増えたことである。
まず、前者の話からする。繰り返すが、ICUでは携帯電話が使えない。それゆえ、病と障害を負った自分の姿を確認することができなかった。そして同時に、自分が抱える疾患と障害に関しての情報を得る術も持ちえていなかった。しかし、だからこそ脳梗塞後遺症を完治させる治療方法はないと表面的には分かっていたとはいえ、(現代の医療なら何か方法があるかもしれない。)と(顔がいいからなんとかなる。)と淡い期待をもつこと可能だった。つまり、ICUではいくらでも現実逃避ができたのだ。しかし一般病床では携帯が扱えるので写真を撮って自分の姿を確認したり、最新の治や同じような境遇に立った方の体験談の検索が可能なためそうはいかなかった。
淡い期待をもっていたので、撮影も検索もすぐに実行した。そして結果的に絶望した。やはり今のところ、脳梗塞の治療は発症から4時間以内にのみ行える血栓溶解療法か開頭手術しかないうえに、後遺症への治療はほぼないことが分かってしまったからだ。そして、半身麻痺の後遺症を抱えて10年が経過しても手足を自由に動かせない人は決して少なくなく、再就職など社会に進出できる人は更にほとんどいない現状も知るハメになったからでもある。つまり、地獄のICUを脱出できても気持ちが晴れ渡るような情報どころか、残酷な現実の情報ばかりしか得られなかったのだ。
そして己の姿もひどかった。当時の私の顔は発症前の姿が跡形もなくなっていた。先にも記載したが、浮腫みと泣き叫んだことにより自慢のアーモンドアイは完全に潰れて一重にすらなっていないことをここでやっと知った。また、生きてきたなかで顔も一番デカかった。こうして人生ではじめて容姿の悩みを抱えた。容姿も悪い、身体も不自由、これといった資格や長所もない。将来を約束したパートナーもいない。(これから生きていけるのかな。)悩みや不安という枠には到底収まりきらない焦りと恐怖がまぜこぜになった感情に苛まれた。そしてやはり泣き叫んで暮らすこととなった。

次に看護師や同室患者との話をする。3人部屋に移動したのだが、私以外は高齢者だった。お二人とも気が優しいお婆様で、「若いのに大変ねえ、変わってあげたいわ。頑張りましょうね。」と温かいお言葉をかけてくださった。久しぶりの理学療法士以外の他人からの温かい言葉に感動で心が震えた。これはとてもありがたいご縁であったのだが、私の隣のベッドのお婆様はナースコールを押せなかった。それゆえ、彼女が看護師を呼ぶ手段は大声を出すほかなかったのである。無論、この方法では看護師は一向に現れない。この状況を同じ患者ながらも可哀想に思い、私は彼女を『助けたい』と思うようになった。
彼女が看護師を呼ぶことが多くなるタイミングは食事後であった。食後に排泄をもよおすからである。排泄の苦しみは私もこの数日で身をもって体感していたので、助けてあげたい、早く看護師を呼んであげいと、とさらに強く思った。しかし、当時の私は己の一存では動作を一切取れない。そして、動作を勝手に取ろうと試すことも看護師からきつく禁じられていた。転倒のリスクがあるからだ。しかし、これではお婆様を助けられない。それゆえ、『いけない』こととは分かっていたが、車椅子で食事中に彼女の声が上がった際に看護師に断りを入れず片足で立ち上がり、いわゆる『けんけん』の要領でベッドまでたどり着き、ベッドの頭にあるナースコールを押そうとしたのだ。
しかし、もう少し、というところで介護士にこの現場を発見されてしまった。そうするとすぐに看護師に報告され、転倒防止のため安全ベルト(身体抑制の道具)を巻かれてしまった。
次に看護師との接点が増えたことについてもご紹介する。このエピソードはいつ思い出しても『信じられない、最低。』の一言に落ち着く。話が前後するが、ICUを出る少し前の日からの排尿方法が変わっていた。尿道に管が刺さったままとなる導尿はあまりに苦痛だったので執拗に懇願して抜去してもらい看護師の付き添いによるトイレ排泄を行うようになっていた。それゆえ排泄するためには看護師を毎回呼ばなければならない状況が生まれた。私は水をよく飲む。したがって人より排尿回数も多いのでナースコールを押す頻度が多くなる。そうだ、トイレ排泄になったことで迂闊にも看護師の業務を増やしてしまったのだ。そして、ついには看護師から大声で「もう水は飲まないで!」と叱責を受けてしまった。もちろん絶叫して泣いた。私は頼みたくて頼んでいるわけではない。一人ではどうしようもできないからナースコールを押すのである。つまり、文字通り『仕方なく』ナースコールを押すのだ。私なりに朝の申し送りの時間や人手が薄くなる食事の時間は避けて呼んでいたのだが、それでも癇に障ったらしい。(なりたくて片麻痺になったわけじゃないし、お願いしたくてお願いしてるわけじゃないのになんでこんなに酷い仕打ちを受けなきゃいけないんだう。学生じゃなくて患者なのにな。)感情や思考などのコントロールが効かなくなる高次脳機能障害によって壊れたレコードのようにこの考えだけが頭を巡り更に泣き叫び続けることとなった。
また、片麻痺の女性ならでは苦悩にも向き合った。それは生理、つまり月経との対面である。これは一般病棟に戻ってから1週間ほどした頃に訪れた。当時は自由に排泄が行えないうえに両手を使うという概念すら私の脳から消え去っている。また、半身だけで生きはじめて生後2週間ほどの赤子であったので片手のみを使う生活に不慣れであった。それゆえナプキンを変えたくても変えられない状況が生まれたのだ。これは中等量から大量の尿を常におむつに湿らせていると同義であるので不快この上ない。さらに基本的にベッドで1日を過ごしているので、経血が沁みたナプキンの感触を如実に感じざるをえなかった。そして私は、元々生理とはナプキンが主体ではなく、タンポンを主体として向き合ってきたのでひたすら経血をナプキンに与え続ける環境に身を置くことが殆ど初めてであり(私は中学生の頃からタンポンを愛用してる。)この不快感をより強く感じていた。しかしこの不快感から逃れるためにナプキンを変えたくとも1人ではトイレへ行けないなうえにトイレに辿り着けたとしてもナプキンを替えられない。どちらにせよナースコールを押して看護師や介護士を呼んで介助を求めなければならいのだ。そう、生理になったことで排泄のためのナースコールを押す頻度を更に増やしてしまったのだ。介護士が学ぶ介助内容の詳細は分かりかねるが、少なくとも看護師が学ぶ看護技術には『生理中の患者のナプキン交換』は存在しない。また、入院患者は高齢者が殆どで皆、閉経している。それゆえ現場の医療スタッフは滅多に生理がある患者に遭遇することがないのだ。しかし、この病院の看護師には20代の私が入院していることでイレギュラー中のイレギュラーの業務を大量に課せられるのだ。もちろん、看護師からはいい印象を持たれない。私は『手がかかる厄介な患者』にさらに降格となってしまったのだ。当然、これまでさえ強く当たられてきたのだからからこの勢いはさらに加速する。最終的には「もうコール押さないで!」とナースコールを取り上げられてしまったほどだ。
しかし繰り返すが、私は看護師や介護士を呼びたくて呼んでいるのではなく、自分ひとりではどうしようもないから仕方なしに呼んでいるのだ。一応社会人でもあったので自分でできる解決策としてタンポンの使用許可を提案したが、危険があるとのことでこれも却下されてしまい自分で行える対策なかった。片麻痺になったばかりの若い患者をどうしたらこのようにあたることができるのだろうと常々ふしぎに思う。
片麻痺の患者にとって、ファスナーや靴紐などが扱いにくい敵となるのだが、女性はこうして更に敵を作る。包装がしっかりした生理用用品を上手に開封し、ナプキンを下着に取り付けるにあたって強力なシールがついた羽を扱う必要があるからだ。そしてこれらは全てもれなく『両手を使う』もにである。生理用品でなくてもいいから何かシールを片手で剥がし、片手で貼る作業を試してしてみてほしい。この困難さがわかるだろう。両手を使っても失敗する生理用品の取り扱いを不安定な身体を不安定に支えながら片手で面積の小さい下着に取り付けることは相当に神経を、エネルギー多く使うのだ。当時27歳、閉経を迎えるまでに最低でも23年ほどかかる。楽になる兆しが見えず辟易とした。
こうしてただ『普通』に暮らすことも難しいことを如実に気づくこととなった一般病床での生活はやはり失望と絶望で包まれ、ICUを出れれば帰れるなんて頭の片隅で抱いた希望は己の後遺症によって毎日砕かれていた。

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