合法メンヘラ女の軌跡2

〈急性期病院 ICU編〉

目覚めると古びた病院のICUにいた。夜中のI C Uはすごい。目覚めたのは麻酔が切れたからではない。せん妄を来した高齢者の叫び声やお経を唱える声、そして排泄物の強烈な臭いと無機質な医療機器のモニター音で起きたのだと思う。最悪の目覚めである。当然のことながら、起源も悪い。「目が覚めましたか?なんの病気か分かりますか?」気分も機嫌も最高に悪い私に夜勤の看護師が声をかける。(は?分かるわけない。そもそも病名の告知は医師の仕事だろ、ふざけんな。)元看護学生、国試浪人女はまたしても内心で悪態をつく。「わかりませんけど、アル中でしょうか?もう帰れますかね…?」奇人の集まりである医療業界のなかで看護師はとりわけタチが悪い。忙しい環境に相まって抱えた苛立ちや焦りを看護学生や患者で昇華させることが当たり前となってしまっている集団である。大学時代に病棟実習で看護師たちから散々酷い扱いを受けた経験がある私は看護師へ取るべき対応も分かっていた。とにかく恭しく振舞い看護師を立てる態度と言葉を選択するべきだ。また、経験は浅くとも社会人でもあったのでその時にできる最大限の丁寧な言葉で返したつもりだ。話し方もやや幼さが香るように設定したので加護欲も引き立てられただろう。
地獄と生まれ変わりはここからだった。かけらばかりの看護の知識はあったので脳梗塞を発症し、後遺症である左片麻痺を抱えた事実に絶望した。片麻痺になると、元の生活に一生戻れないことや脳梗塞の再発率は平均50%以上と高いことも分かっていたからだ。
 そして、これまでその場だけの楽しみを優先して講義は寝て酒を飲む、遊び惚けるというちゃらんぽらんな人生を歩んできて来たことへの後悔、そしてこうしてまた酒を飲んだ末にのこのこと入院するようになり、家族に大きな迷惑と心配を与えていることへ申し訳なさで泣くに泣いた。大きな悲しみを抱えた人間は半日でティッシュ箱を使いきれることを知った。

〈私の後遺症〉

目が覚めていくらか時間が経つと食事が与えられた。メニューは全粥と得体の知れない刻まれた副食、ヨーグルト飲料だった。私はこの世でお粥という食べ物が一番嫌いだ。しかも、病院が提供する食事であるので当然味はない。確かめてはいないが、脳梗塞の患者であるので減塩食であったのだと思う。とてもじゃないが食べられるものではなかった。そして、こういった嗜好の問題以前に全身麻酔で開頭手術を終えたへとへとの身体(しかも左半身は麻痺を起こしている。)は身を起こす、座る体制を取ることだけでも眩暈が起きるほどに限界を迎えており、そもそも食事どころではなかった。(こんな気分も体調も最悪なコンディションのなかで食べたくもない食事を食べなければいけないのか。)と心の底から辟易とした。しかし、元看護学生の私は患者の食事摂取量の把握も看護師業務の一つだと知っている。この業務を妨害した際に看護師の機嫌が下降し制裁を与えられることのほうが恐ろしかった。意を決してしかたなしに食べる。もちろん、まずい。ヨーグルト飲料だけが唯一の救いだった。全粥と副食を1~2割程度食べて、唯一の光であるヨーグルト飲料を全量流しこみ「食べ終わりました。」と看護師を呼んだ。すると「ひまりちゃん、みかんは食べないの?」と看護師が不思議そうな顔をして私に尋ねるのだ。先にも書いたが、私が把握していたメニューは全粥と刻みの副食、そしてヨーグルト飲料だ。みかんなんてあたりまえに美味しい食べ物はひとつとしてなかった。そして何より、(あくまで成人済の女性患者をちゃんづけで呼ぶなんて。)と腹立たしく感じており、冷静に状況を観察することができなかった。
しかし、みかんはあったのである。食事トレーの左側に。壊れてしまった私の脳は左側にあるみかんを認識できていなかったのだ。これは、『左空間無視』という脳梗塞後遺症のひとつの症状である。私はここで再度、自分は本当に脳梗塞を発症し、本当に左片麻痺の患者になってしまったのだと強く自覚した。繰り返すが私は異様にプライドが高い。私は大学で4年間看護学を学んだ。そして病棟実習で看護師に強くあたられながら幾度となく患者を受け持ち、看護学部を卒業したのだ。そしてそれらの患者のなかには私と同じ脳卒中の患者もいたこともある。それなのに、自分がほんの少し寝ている間に、看る側からが看てもらう側に立場が逆転してしまったのだ。悲しみと屈辱で泣くほかなかった。尚、この泣き方は決してしくしく、ではない。絶叫である。私もせん妄を来した高齢者の患者と同じように泣き叫んでいた。(泣いても仕方ない。起こってしまったことはどうしようもないのだから現実を受け入れて挽回しないと。)そう、かけらだけ残った理性が働くもどうにもできない事実にただただ絶望するしかなかった。絶叫の涙を流した。尚、この絶叫はただの悲しみの感情表出ではない。これも脳梗塞後遺症のひとつなのだ。『高次脳機能障害』の『感情失禁』だ。情動や理性、認知の制御に関わる脳の部位が損傷を受け、感情や思考の制御ができなくなってしまっているのである。すなわち涙、怒り、笑いといった感情とその表出のコントロールができなくなってしまうのだ。人によってどの感情表出が現れるかは様々だが、私の場合は涙することであった。心が動いた時に現れる症状なので、たとえ楽しかったり嬉しかったりしても異常な感情表出(泣き叫ぶ)をしてしまう。また、泣き叫んでいるかたわら「泣き叫ぶ自分がいる」ということは意外にも認識できてしまうので、こうして異様に泣き叫び、看護師や介護士を困らせている現状に落ち込んだ。そしてまたショックで泣き叫んでしまう。泣くも叫ぶも体力が必要であるうえ、こうして泣き叫ぶ間に頭がどんどん混乱して収拾がつかなくなるので止められる術を心から欲した。そしてこの症状は脳梗塞を発症してから4年が経とうとしている今も残っている。(いくらか制御可能になったが。笑)
  また、当時の私のADL(生活を送るために必要な最低限の日常生活動作。具体的には起居動作や移乗・移動、排泄・入浴、更衣や整容など。)は排泄が導尿と摘便、入浴と整容が看護師による洗髪と清拭のみ、起居動作と移乗・移動は行えず、1日の大半をベッド上で過ごす状態であった。すなわち、寝転がること、話すこと以外は何もかも自分自身では行えなかった。これが俗にいう『左半身不全、または左片麻痺』の代表的な症状だ。

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