合法メンヘラ女の軌跡 ICU編1
目が覚めると古びた病院のICUにいた。
夜中のICUはすごい。目覚めたのは麻酔が切れたからではない。せん妄を来した高齢者の叫び声と排泄物の香り、そして無機質な医療機器のモニター音で起きたのだと思う。最悪な目覚めである。当然機嫌も悪い。
「目が覚めましたか?なんの病気か分かりますか?」
気分も機嫌も最高潮に悪い私に看護師が声を掛ける。(は?分かるわけないだろ、ふざけんな。病名の告知は医師の仕事だろ?)元看護学生、国試浪人女は内心で悪態をつく。
「…分かりませんけど、アル中ですか?もう帰れますかね…?」
奇人の集まりである医療業界のなかで看護師はとりわけタチが悪い。忙しい環境に相まって抱えた苛立ちや焦りを看護学生や患者で昇華することが当たり前となってしまっている集団である。
大学時代に病棟実習で看護師から散々酷い扱いを受けた経験がある私は看護師へ取るべき対応も分かっていた。とにかくうやうやしく振る舞い、看護師を立てる態度で言葉を選ぶべきだ。また、経験は浅くとも社会人であったのでその時にできる最大限の丁寧な言葉で返すこととした。話し方もやや幼なさが香るように設定したので加護欲も引き立てたられただろう。
この返答は正解だった。さすが私。
この看護師は夜勤の業務をとにかく終わらせて早く退勤したかったのである。
「脳梗塞ですよ!両手をあげてください!」
早口で雑に症状を確認された。
(脳梗塞?ラッキー!搬送が早かったから点滴で帰れる!手もめっちゃ上がるから麻痺もないじゃん天才ー!!!)大喜びの私だった。後にぬか喜びになるのだが。
後に聞いた話によると、救急車を呼ぶまでに1日が経過してしまっていたそうだ。この時の私の病状は右脳の中大脳動脈(脳にある非常に大きな血管)に血栓が詰まり、脳に殆ど酸素が届かなくなっていた。そして脳が炎症を起こしてパンパンに膨れ上がっていた。この状態ではやがて損傷を受けていない脳の部分をも傷害し、息絶えるのも時間の問題といった状態であった。したがって、一般的な脳梗塞の治療である点滴による血栓溶解の治療は行えず、開頭手術によって脳と命を繋ぎ止めるほかなかったのだ。
このような激しい炎症を起こした脳は『自分には左半身が存在する』ということを忘れてしまうらしい。つまり、私の脳は左半身に麻痺があることを認識できずに右側が動くから完璧に両手をあげていると思い込んだのだ。
地獄と生まれ変わりはここからだった。
なまじの看護知識はあったので脳梗塞を発症し、後遺症として左片麻痺が残ったという現実に絶望した。
麻痺になると元の生活には一生戻れないことや脳梗塞の再発率は平均50%と高いことも分かっていたからだ。そして何よりこれまで適当に生きていたことへの後悔、こうして酒を飲んでのこのこと入院している間にも家族に迷惑をかけていることへの申し訳なさで泣くに泣いた。大きな悲しみを抱えた人間はティッシュ箱を半日で使い切れることを知った。
目が覚めて、いくらか時間が経った後に食事が出た。
メニューは全粥と得体の知れない刻み食(副菜)とジョアだった。
私はこの世でお粥という食べ物が一番嫌いだ。しかも病院が出す食事であるので当然味はない。確かめてはいないが、脳梗塞の患者であるからさらに減塩食であったのだったと思う。
とてもじゃないが食べられたものではなかった。嗜好の問題以前に全身麻酔で開頭手術を終えたへとへとの身体(しかも左半身は麻痺している)には身体を起こすことだけで目眩がするほど疲弊してした。とてもじゃないが食事どころではない。
このように機嫌も気分も最悪なコンディションの中で大嫌いな食べ物を食べないといけないのか。
しかし、元看護学生の私は患者の食事摂取量の把握も看護師業務の一つだと知っている。この業務を阻害した際に看護師の機嫌が下降し制裁を与えられることのほうが恐ろしかった。しかたなしに食べる。
もちろん、まずい。
ジョアだけが唯一の救いだった。
全粥と副食を1~2割程度食べて、唯一の光であるジョアは全量流しこみ「食べ終わりました。」と看護師を呼んだ。
「ひまりちゃん、みかんは食べないの?」
と看護師が私に尋ねる。
先にも書いたが、私が把握していたメニューは全粥と刻みの副食、そしてジョアだ。みかんなんて当たり前に美味しい食べ物はひとつとしてなかった。そして何より、(あくまで成人済みの女性患者をちゃんづけで呼ぶなんて。)と腹立たしく感じており、冷静に状況を観察できなかった。
しかし、みかんはあったのだ。左側に。壊れてしまった私の脳は左側にあるみかんを認識できていなかったのだ。左空間無視という症状である。
私はここで再度、自分は本当に脳梗塞を発症し、本当に左片麻痺の患者になってしまったのだと強く自覚した。繰り返すが私は異様にプライドが高い。看護学部で4年間学び、病棟実習で看護師に強くあたられながら幾度となく患者を受け持ち、卒業したのだ。そしての患者のなかには私と同じ脳卒中の患者もいた。
それなのに、自分がほんの少し寝ている間に看る側からが看てもらう側に立場が逆転してしまった。
悲しみと屈辱で泣くほかなかった。尚、この泣き方は決してしくしく…ではない。絶叫である。私もせん妄を来した高齢者の患者と同じように泣き叫んでいた。(泣いても仕方ない。起こってしまったことはもどらないのだから現実を受け入れて挽回するほかない。)そう、かけらだけ残った理性が働くもどうにもできない事実にただただ絶望するしかなかった。絶叫の涙を流した。これは絶叫はただの悲しみの感情表出ではない。脳梗塞後遺症のひとつである高次脳機能障害の感情失禁だ。情動や理性、認知の制御に関わる脳の部位が損傷を受け、感情や思考の制御ができなくなってしまったのである。すなわち、涙や怒り笑いといった感情表出のコントロールができなくなってしまうものである。人によってどの感情表出が現れるかはさまざまであるが、私の場合は涙することであった。心が動いた時に現れる症状なので、たとえ楽しかったり嬉しかったりしても異常な感情表出(泣き叫ぶ)をしてしまう。泣き叫んでいる傍ら、『泣き叫ぶ自分がいる』ということは意外にも認識できてしまうので、こうして異様に泣き叫び、看護師や介護士を困らせている現状に落ち込んだ。そしてまたショックで泣き叫んでしまう。泣くのも叫ぶのも体力がいるし、頭がどんどん混乱しとにかく体力が持たないので止められる術を心から欲した。なお、この症状は脳梗塞を発症してから4年が経とうとしている今も残っている。(いくらか制御可能になったが。笑)
尚、当時の私のADL(生活を送るために必要な最低限の日常生活動作。具体的には起居動作、移乗、移動、排泄、更衣、入浴、整容など。)は排泄が導尿と摘便、入浴と整容が看護師による洗髪と清拭のみ、移乗と移動は行えず、1日の大半をベッド上で過ごす状態であった。すなわち、寝転がること以外は基本的に何もかも自分自身では行えなかったのだ。
このような状態の中で一番苦労したことは排泄だ。左半身のすべてが麻痺しているので突き詰めて話すと排便ができなかった。いきむためには腹筋が必要だからだ。また、下手にいきむと脳圧が上がり脳に危険が及ぶので自立した排便はほぼ行えなかった。おむつ上排泄もプライドが許さなかったのでできず、看護師の付き添いの元でトイレでの排泄を試す(看護師を真横につけて排便する)か、ベッド上で摘便をしてもらうほかなかった。はじめてトイレで排便を試みた際のことをよく覚えている。重度の麻痺と下手ないきみが起因し排便ではなく嘔吐をしてしまったのだ。
この日から食べること、トイレで排便をすることに対して恐怖を覚えた。故に自動的に私の排便方法は摘便一択となるのだがこれも怖かった。
前後するが、摘便は患者に横向きに寝転がってもらい、看護師が肛門に指を挿れこみ便を掻きだす便の排出方法である。麻痺が非常に重い私にとって、横向きになり右半身だけでぴくりともしないも左半身を支える体制を取ることは大きな負担と恐怖になった。便を掻き出そうとするたびに、崖のフチに立たされているような感覚があった。そしてこの負担と恐怖という代償を払ってもすっきりする量の排便はまったくできなかった。看護師が掻き出せる便は肛門表面にあるものだけだからである。つらい思いをして辛い状況を生み出していることが便秘の不快感よりも苦しかった。
また、開頭手術は大変大きな手術であるので体への負担も大きく、顔がパンパンに膨れ上がって自慢の大きな目が跡形もなくなりもはや前が見えない状況にも身を置いていた。そしてこれを解消するために、頭にはドレーンという過剰な水分を排出するためのチューブが常時刺さっていた。
また、頭部には頭蓋骨を外せるだけの大きな傷跡もある。したがって、頭部には常に激しい痛みが常にあった。寝ることこそが苦しく全く眠れなかった。それゆえ常に覚醒しているので、今直面している苦しさや現状を考えなくてもいい時間が一寸たりともなかった。
また、採血や点滴の差し替えが定期的にあったことも辛かった。私の血管はもともと細く、針が差しにくいのだが、この病院にはたとえ難しい血管をもつ患者であっても針刺しの負担を最小にしようと行動する看護師はひとりもいなかった。その代わりに早く業務を終わらせたい看護師は大勢いたのだ。それゆえ、針の通りやすさを優先し、神経が多く通走り痛みを感じやすい手背(手の甲)や麻痺を起こしている左手を針を当たり前に刺すのである。本当に痛かった。特に麻痺を起こしている左半身は刺激の種類を識別できなくなっている。私の場合は水が手にかかる感覚をも激痛として感じるようになっていた。と、するとお分かりいただけるだろうが、針を刺すなんてもってのほかなのである。針刺しを失敗されるたびに文字通り、絶叫した。
このような身も心もボロボロになる日々をICUでは過ごした。
そして、こうした苦しみを誰かに聞いてもらう術もなかったことも大きなストレスになっていた。(ICUでは携帯の利用ができないので、家族や友人に救いを求めることもできず、私の周りには看護師(敵)、ドレーン(敵)、注射点滴(敵)、麻痺した左半身(敵)しかおらず、味方は一人もいなかった。このような環境下で、私には日に日に自分が小さくなっていくような感覚があった。時には、(このまま極限まで小さくなって消えちゃえばいいのに。迷惑もかけて、こんなに苦しい思いをするくらいなら中途半端に生き残りたくなかったな。)と思う日もあった。