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落語で歌舞伎入門「ごくごく飲む忠臣蔵」

2018年8月29日、草月ホールにて開催されました「ほぼ日の学校スペシャル・落語で歌舞伎入門 ごくごく飲む忠臣蔵」に行ってきました。

すっかり楽しんでしまって、イベントレポートとはいえない、主観ばかりですが特に印象に残ったところなどを書いてみます。

Hayano歌舞伎ゼミの主宰である早野龍五先生の解説と、上方落語・桂米朝一門の桂吉坊師匠の落語によって「忠臣蔵」を楽しく理解しようという本イベント。

お恥ずかしい話だけれど私は「忠臣蔵」の話自体、よく知らない。江戸城で起きた騒ぎが発端で、家臣が仇討ちをする話というザックリとした認識だ。

「仮名手本忠臣蔵」は歌舞伎ではとても人気のある演目らしい。通常ならば三か月かけて行われるような内容を、「ごくごく飲む忠臣蔵」では二時間でお話をすべてまとめてしまう、というものだった。

ただ、わたしにとってはとてもありがたい内容だった。先日、生まれて初めて歌舞伎見物に出かけたばかりで歌舞伎初心者の私にとって忠臣蔵のお話は、よくわからない。ちなみに歌舞伎で演じられている「仮名手本忠臣蔵」は実際に起きた忠臣蔵の事件そのままを描いているわけではないということも初めて知った。お話がつくられた江戸時代、武士の話をそのまま演じるというのは禁じられていた。武家を愚弄した、ということになるからでしょう。そのため、江戸時代に起きた事件を太平記の時代(足利尊氏とか、新田義貞など)に時代背景をスライドさせてつくられた話だということも初めて知った。

あらすじくらいはザックリと理解したうえで、歌舞伎見物に出かけたほうが、おもしろさが伝わってくるだろう。歌舞伎はストーリーを追うだけではなく、身体の動きや、言い回し、衣装などのみどころも多い。世の中にすでに知れ渡っている話ならば、知っていても「ネタバレだ!」とは、ならない世界なのだ。

今回、二時間で忠臣蔵をまとめてしまう、という荒業なのだけれど、趣向を聞いた時「なるほど!」と大きく頷いたのを覚えている。

落語の演目を利用しよう、というのである。落語には「芝居噺(しばいばなし)」というジャンルがあって、落語の中で歌舞伎の一場面が演じられる。

落語には本当にいろんな人が出てくる。うっかりものや、ちょっとずるして儲けてやろうと考える(けれど失敗する)ひと。その中で「仕事そっちのけで芝居好きの人間」というのもよく現れる。その人たちが仕事中であったり、日常生活のなかで芝居の一場面や歌舞伎の言い回しを演じて騒ぎを起こす、というものだ。現代的な落語を考えると、急にミュージカルのように踊りながら歌いだしたりするような人だろうか……(ラ・ラ・ランドなどのミュージカル映画を見たあとに、真似をしたくなって歌ったり踊り出したりする、などは心理的に近いのかも)

「仮名手本忠臣蔵」は場面ごとに「〇段目」と表示されている。大序から始まって、二段目・三段目と続き十一段目まで場面が設定されている。各場面ごとに見どころがあるが、とくに多くの人が知っている場面を落語に変えて演じられてきたのだろう。

「ごくごく飲む忠臣蔵」では三段目を「質屋芝居」、四段目「狐芝居」、五段目「大津絵(舞)」、七段目「七段目」。これらすべてを吉坊師匠おひとりで演じられた。普段の寄席なら、独演会だとしても、芝居噺ばかりが続くことはないとのこと。汗だくになって、演じていらっしゃった。

落語に詳しいわけではないけれど、私の両親は落語が好きで幼い頃からカセットテープの「落語全集」が家で流れていることが多い。今でも実家に帰ると、父は未だに現役のカセットテープを聞いていたり、ラジオや録画した落語の高座を繰り返しみている。

そのため、「七段目」は確実に聞いたことがある落語だった。しかし他の二題「質屋芝居」も「狐芝居」も「あ、これ忠臣蔵の話だったのか」とようやく私の頭の中で理解がつながった。

「質屋芝居」は芝居好きの質屋さんが、簡単に言うと仕事そっちのけで芝居に供してしまう話。お客様から預かった質草を芝居の小道具にしてしまって、お客様にあきれられる始末だ。私はこの噺が忠臣蔵の内容である、というよりも仕事をサボって真剣に芝居をしてしまう丁稚と番頭、今すぐにでも質草を出したいお客の対比が面白い話だとおもっていた。

なぜなら、カセットテープで聞いていたからだ。落語の芝居噺のおもしろさは、落語なのに歌舞伎の一場面を演じていることにあるとようやく気付いた。見得をきるなどの大きな動きが落語の中で演じられていて、その動き自体も楽しむことができるのだ。カセットテープだと、声だけが伝わってくるので、おもしろいのはおもしろいのだけれど、動きそのもののおもしろさは、伝わってこない。

やはり、目の前でみて伝わる面白さというのがあって、それを肌で感じることができたイベントだった。

数年前、桂小米朝師匠(現・五代目 桂米團治)が演じる「七段目」を実家のテレビで見ていた時のこと。「落語やのに、お芝居の内容も覚えなあかんから、大変そうやな」と何気なく私が呟いたのを記憶している。落語はひとりで何人もの役柄を演じ分けなければいけない。その中で、歌舞伎役者に似せた口調まで演じなくちゃいけない。ましてやお芝居の場面そのものを再演しなくちゃいけない。落語だけでも大変なのに、歌舞伎までやらなくちゃいけないなんて大変だなあと感じたのだ。そばにいた父が「まあ、落語も好きで、芝居も好きじゃないとむずかしいやろなあ。ただ覚えるだけ、まねるだけでは、人を笑わせる芸にまでは持って行かれへんのと違うか」といっていたのを覚えている。

「ごくごく飲む忠臣蔵」は落語をみながらおもしろおかしく、けれど「なるほど!」としっかりと理解できるイベントだった。歌舞伎見物にも行きたいし、寄席に足を運んで落語を楽しみに行ってみようと思える一夜となった。


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間詰ちひろ
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