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市民権をはく奪された“うさぎ跳び”

「足腰を鍛える」と言われていた“うさぎ跳び”が、いつの間にか大反転して、「健康を害する」と言われるようになった。
うさぎもたまったものではない! 長年、あらゆる部活で贔屓にされていた権威ある運動だったのに、「運動選手」が「アスリート」と呼ばれ始めたことに呼応するかのように、ネガティブキャンペーンが張られていった。
WHY! うさぎは叫ぶ。日本人の足腰は私たちが育んできたのだぞ! なぜ腕立て伏せは「プッシュアップ」と改名するだけで許されるんだ! これからは「ラビ・ジャン」と気軽に呼んでくれていい! 
突然はく奪された市民権の復活を求めて訴えても、一度離れてしまった市民の心は、おそらく簡単には取り戻せない。
 
科学的に足腰に負荷をかけることが解明されて、同時に、より効果的な他の方法が提示されれば、以前の方法は“廃棄処分”される。
だが、どうも負荷も鍛錬も実質は違わないようだ。うさぎが跳ぶ代わりに、寝転んだうさぎがレッグプレスを押し返しているだけ。
断っておくが、詳細なうさぎ跳び廃止の経緯は知らない。「なんかダメなんだってよ」「へー、そーなんだー」というユルイ受容だ。
そこが「日本人らしい」と言えば「らしい」。本質的な部分の理解が十分でないまま、「こっちの水は甘~いぞ」作戦に乗っかっていける。「なんとなくダメそうだって分かる」で、みんな合意できる。そんな程度で市民の心は離れていく。
しかも、その背景にはおそらく“クロフネ”がいる。アシコシフカノーグッド、プリーズニューメソッド、テクノロジーサイエンスデータ……海の向こうからやって来るものは明治維新以来、VIPのおもてなし。
 
うさぎに限らず、いまの主流だって時が経てばNGを突きつけられるかもしれない。
大事なことは、市民権は市民権でしかないと分かっておくこと。真実が市民権を得るとは限らないし、真実が市民に必要かどうかも定かではない。
もっと言えば、どこの水が甘いとか、なんとなく分かるとか、クロフネが言うからとか、そんなに軽々しく「う」のみにしてはいけない。大いなる嘘が含まれているかもしれないのだから。
嘘が市民権を得ると、それが真実に取って代わって事実となる。真実であれ嘘であれ、事実となったものが社会のベースとなる。歴史も、骨董品も、その証人。
「学歴が高いほうが幸せな人生を送れるよ」
「愛こそが最も大切な価値だ」
「幸せになるために人は生きている」
「何でも言える自由な社会を目指すべき」
「人にも地球にも優しい生き方をしよう」
「健康であれば何でもできる」
「スポーツは健康づくりに必要だ」
「病気なんだから薬を飲んで治そう」
「孤独はネガティブな心をつくってしまう」
「国家の安定は経済発展にかかっている」
「国は政治家がリードするものだ」
……などなどの市民権。
しかし、それらを“うさぎ跳び”だ! と見ている人たちも少なからずいる。
 
嘘の上で生きることが必ずしも不幸だとは思わない。噓も薬になるときがある。無知なるゆえの嘘ならば、いつか知を獲得したときに嘘は廃棄されると期待もできる。
困ってしまうのは、自分が得するからと恣意的に嘘に市民権を与える者がいることだ。
おやめなさいって、うさぎの後ろ蹴りに遭う前に。

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