大谷翔平「もっと野球がうまくなりたい」
エンゼルス・大谷翔平選手が「もっと野球がうまくなりたい」と言っていた。
以前、サッカーのカズ(三浦知良)が「もっとサッカーがうまくなりたい」と言っているのをテレビで見た。
誰もが認めるプロ選手の「うまくなりたい」って、野球やサッカーを始めて間もない子供のそれとは次元が違うと分かるし、しかも毎日厳しい練習を続けられる理由がそのシンプルな一言に集約されるって、「あんたら、すげーな!」と思った。
そして、「すげー」を知らされて、ちょっと考えてみた。
彼らの言葉を私たちに当てはめるとしたら、どういうことだ?
特別な技を持たない普通の人間は何のプロ?
「うまくなる」ってどういうこと?
…………
いつか考えは変わるかもしれないけれど、とりあえず、こんな答えを出してみた。
『私たちは「生きるプロ」だ』。
『生きるプロにとって「うまくなること」とは、生きることのしんどさを平気で超えていけるようになること』
言うは易し、さ。誰かにそう反論されそうだ。
だけど、プロ選手の「うまくなりたい」を聞いて、言うは易しだ、とは思わない。自分の中の何かがしびれさせられるし、そういう反応をしていきたい。
だから、言うは易し、とうそぶくことは意味がない。
誰かが評価するとかしないとか関係なく、自分はうまくなりたいから練習するんだと大谷もカズも考えている、おそらく。
同じように、私たちも生きることがうまくなるために「練習」するだけのことだ。
職場の嫌いなヤツとも上手に関わる練習、とか。
特別な能力を持っていない自分でも役に立てる場所を見つけていく練習、とか。
いざというときに、野球の神様ならぬ生きることの神様が味方になってくれるよう日頃の言動のクオリティを高める練習(ウソをついてはいけないときにはつかないとか、許せない振る舞いの人には忖度せずに指摘するとか)とか。
今日この日を病気や事故で生きることができない人たちが大勢いるのだから何があっても自分から死んでしまうようなことは絶対にしない練習、とか。
もっと生きることがうまくなりたい努力を続けていると、「もっと野球がうまくなりたい」と言った大谷翔平の気持ちがより深く味わえるかもしれない。
少なくとも、大谷やカズと「うまくなりたい」対話を毎日、交わすことができる。会わなくても。
「もっと伝え方がうまくなりたい」「もっと褒め方がうまくなりたい」「もっと信頼の仕方がうまくなりたい」「もっと親子関係がうまくなりたい」……
「すげーな!」と他人に言われるために生きているわけじゃないし、野球やサッカーはできないけれど、生きることがうまくなろうと練習することだったらできる。
しかも、その練習が実は生きる本番でもあるし、「もっと」を極めていくプロセスで自ずと人に何かを与えていくのかもしれない。