私の幸福を知る唯一の存在が、自我だった件。
いつからか忘れるくらい長いこと、
その声を聞いている。
ベッドの中でまどろんでいる時。
背筋が凍るようなその一言を。
「嘘です。ごめんなさい。死にたくありません」
それは、私が認識している限り、
間違いのない本心で、死にたくもないのに、
なぜ、そんな言葉が浮かんでくるのか…
ずっと不可思議なまま、今も続いている。
ただ、死にたくないからと言って、
絶対に生きたいわけではない。
そんな後ろめたさがあるから、
余計に心に響いてしまうのだろう。
この世界は、相対的な価値観が、
同時に発生するルール。
なので、多くの人が言うように、
「死にたいは、生きたい」
と思うようにしてきた。
違和感がありつつも、
そう信じ込もうとしてきたのは、
それらしい理由がないと、
望んでもいない死を願う自分が
恐ろしかったから。
なのだけれど、私の
「死にたい」は、
「今は、生きてる」だった。
今、生きているから、死にたいとか思える。
死んでしまったら、死にたいなんて思えない。
今、生きているから、
もう一つの価値観を選べる立場にある。
全ての選択肢は、生きていることが前提。
死んだら、選べない。
「今は生きている」
そんな当たり前の言葉になったので、
その声に前ほど怯えずに済んでいる。
死にたいは、今生きているということ。
それと同じくらい衝撃的な気づきがあった。
自己保身しか考えない自我が、愛だった件。
嘘でしょ??
現実的なトラブルの根源とも言えるあの自我が?
自分しか大切にできない、あいつが?
けれど、愛だったのですよ。確かに。たぶん。
自我は、現実を思い通りにしようと
ムダに戦っているだけの問題児。
そんな認識が覆りました。
反転ですよ。真逆です。
自我が戦っていたのは、
現実ではなく、愛ではないもの。
周囲からの悪意や
愛に背こうとする私自身から、
それを守ろうとする怒れる愛でした。
保身しか考えない自我が、
現実的な人生を犠牲にしてまで守っていたもの。
私の幸福。幸福の概念、かな。
幸せになるために生きてきたのに、
幸せとは程遠い今にあるのは、
幸せだと思っていたことが、
私の幸せじゃなかったから。
何が私にとっての幸福なのか
を見誤ったまま、求めてきたから。
だから、何も為せないまま、
人生をムダにしてきたわけです。
私にとっての幸福が、守られ、隠されていたから。
悪意や、愛のふりをした不幸に奪われないように。
幸せは、条件ではない。
主観的な幸せを感じている状態。
じゃあ、どんな時に幸せだと思うのか?
本能が満たされているとか、
周囲から受け入れられているとか、
やりたいことを自由にやっているとか。
…うん。そういうこと。
それって、同じなんだよね。
愛されたかった私の願望と。
なり振り構わず自我が守ってきたものって、
私が欲しい愛なのだと思う。
愛されたかった私だけが知っている
心が満たされる方法。
寂しさや怒りを生まない方法。
それが、私の幸福。たぶんね。
愛されたかった私は、
不幸だからこそ、幸福を知っている。
私の幸せを知る唯一。
幸せを感じるノウハウがあり、
愛のふりをした不幸や悪意を
見極めることができる。
誰よりも私の幸福に近い存在だった。
なら、自我って、何者?
私の幸福を必死で守っていたなら、
ただの問題児ではないはず。
社会的な成功を棒に振ってまで、
私の幸福を守り抜いた頼れるナイトだ。
愛を得られず傷ついた「愛されたかった私」
彼女を守る価値観が採用され、
私と言う自我が誕生した。
愛されたかった私が、
自我を創り上げたとも言えなくはない。
じゃあ、愛されたかった私って、なんだろう?
愛を知るもの。つまりは、愛そのもの。
愛されたかった私そのものが愛。
そう仮定すると、
愛から創られた自我も、愛から成るもの。
怒れる愛の表現が、自我だったのかな。
不動明王とか、いろんな表情を持つ阿修羅とか、
幾つもの姿を持ちながら、実は同じインドの神様とか。
もちろん、精神世界の話なので、
本当かどうかは証明できませんし、
するつもりもありません。
私の中での辻褄は合うので、
そういうことにしました。
今のところ。
全ては、愛。
なんて嘘くさくて、
現実逃避しないと耐えられない人の発想だと
ちょっと小馬鹿にしていました。
ごめんなさい。
だって、まさかあの問題児が、
人生のどん底を味わう原因の自我ちゃんが、
実は愛だとは思わなかったんだもん。
きっと、全ては愛なのでしょう。
とは言え、とても愛とは思えない現象が
世の中にはたくさんあります。
全てを愛として受け入れることは、
今の私にはできません。
人間だもの。
ちっぽけな私の器が、
受け入れられるだけでいいと思ってます。
ただ、死にたいと言う声は、
愛かもしれないと思うのです。
毛嫌いしていた自我と同じく、
私に拒まれ、認められなくても、
敵対してでも、果たさなければならない
役割があるのかもしれない。
「今は生きている」と言うメッセージ以外にも、
ポジティブな愛の側面が隠れているのかも。
今はまだ、わからないけれど、
私に届いたメッセージなら、
たぶん、必要な愛なのだと思うので。
そう感じたので、そう信じてみようと思う。
心の中においては、
どんな自分も否定せず、
自分を偽らないこと。
それが、愛されたかった私が求める幸福の一つだから。
fumori
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