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私の伸び代に期待する=正解の私を手放す=嫌いな私こそが可能性ってことにしてみる。

自分が嫌すぎて、夜中に目が覚めた。

できなかったこと。
すればよかったこと。

なんかが、次々と浮かんできて、
できなかった自分を裁き続けた。
承認欲求と自己否定による無限自責。

このところ、
そんな不快な気持ちを掻き立てられることが多い。

本当の私を生きよう。
と、決めたら、これだ。

早まったかな。
理想の自分を演じていた方が、
人生楽しいかもしれないな。
後の祭りだけれど…

決めた以上は逃げ場がないので、
認めたくない自分が本当の自分なのだ。
踏みとどまるしかない。

のだけれど、
理想と違う自分へのダメ出しと、
できなかったけど仕方がないという言い訳が
とめどなく押し寄せる。
お気楽に寝てなんかいられないのですよ。

そして、今朝。

嫌な私は、伸び代。
という仮説に落ち着いた。


嫌な私に対する不快感は、
理想とリアルとのギャップ。

なら、嫌な私以外は、
ほぼ理想通りやれている私ということになる。

だから、快適。
けれど、それ以上はない。

理想の私でいるかぎり、ギャップはない。
気分はよく、頑張る必要もない。

ただ、可能性の余地もない。

理想と違うからこそ、
そうなれる可能性を秘めている。

不快な気分にさせられるけれど、
未完成だからこそ、伸び代のある私。

変わろうとしても変われない可能性もある。
チャレンジした挙句、失敗する可能性もある。
やらなきゃよかった、とがっかりする可能性もある。

どちらに転ぶかわからない。

可能性は、結果がわからない未来のこと。
完成されている私は、想定内。
悪く言えば、詰んでいる。

快適でいられるけれど、変容する必要はない。
むしろ、変容してもらっては困る。

理想通りを再現し続けなければならない不自由な私。

それが、快適な自分の正体。


嫌いな私は、可能性のある私。
好きな私は、変化できない私。

なのに、
可能性のある私を不快に思い、
変化できない私を快く感じてしまう。

逆ならいいのに、そうはなってくれない。

やはり、多少不自由でも、不快でも、
楽で安全な未来を優先したい。
そりゃ、そうか。

とは言え、理想に倣って、
堅苦しく、不自由に生きたくはない。

望まない結果を含んだ可能性を選ぶのだから、
割に合うメリットは欲しいところ。

理性の尺度は、損得だ。

けれど、損得だけが理性の尺度ではない。

可能か、不可能かも、尺度の一つ。

快不快の本能を、
損得で分けることもできるし、
可能性で測ることもできる。

やりたくてもデメリットが多ければ
無自覚に避けようとする。
けれど、
現実的に可能かどうかで測ることを優先するなら?

好きで出来ることを、諦める理由が減るかもしれない。
結果、失敗しても、失敗した理由はわかる。

何が足りなかったか。
どこが誤算だったのか。

努力不足や実力不足で片付けない。
可能か不可能かで、できると判断したのだ。
希望的観測であるはずもない。

現実的な理由や原因がある。

そう思って、結果を受け止められるなら、
改善して、再挑戦することができる。
挑戦すればするほど、成功率は上がるかも。

好きだし、やろうとすればできるけど、やらないこと。
嫌だけど、できるし、やった方がいいとされていること。

そういう本音と理性の葛藤は、
損得優先で好き嫌いを測るから。

好きだからやりたいこと、
嫌だからやりたくないことを
先ずは、可能か不可能かで測る。

それは、自分の理に反しない?
選択の結果がもたらすデメリットを受け止められる?

そう心が決まれば、選ぶことができるのかもしれない。
損得を超える選択肢を。

本音と自分の理に従っていること。
望まない結果を認め、許せること。
理想じゃない私を選ぶこと。

正解をなぞる人生から、
正解のない人生へ。

理想の私から、本当の私へ。

さて、本当の私は、
結果がわからない可能性を選べるだろうか?

正直、気が重い。
自分の人生を背負い切れるかな?
自信ないな。
自由に伴う責任って、思った以上に重いわ。
迷うわ。ブレるわ。やめたいかも、自由。

でも、だからって、
これまで通りの人生を生きるつもりはない。

自分を嫌いになって、
選びたいものを諦める人生には、飽きた。

そんな人生なら、これ以上はいらない。

過去の全てには、感謝しかないよ。
嘘じゃないよ。

今日の私が、人生の最高到達地点です。

過去のあれこれによって、
変容し、生き延びることに成功した、
この命にとって最適な私です。

だからこそ、これからも変わってゆくのです。
大丈夫なのです。

理想通りに、正解を生きようとしてきたのに、
結局、変化は避けられなかった。

なら、正解じゃない自分を責めなくても済む
本当の嫌な自分で生きてもいいじゃん。

自由の代償は、軽くない。

不快だけれど、怖いけれど、不安だけれど、
嫌な私には、想定外の結果に至る可能性がある。

自分の伸び代に期待する人生。

そう捉え直せば、
嫌な私も、自由の重さも、
悪くないかもしれない。

少なくとも、失敗する自分を
これまでよりは好きでいられる。

そんな予感がする。

嫌いな自分に期待して、2025年を駆け抜ける。

fumori


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