選びたくないから、生きていられるのかもしれない。
生きている今にあって、
死後の世界があるかはわからないのだけれど、
最期の審判とか、願いみたいなものは、
ある気がしている。
特定の宗教を信じているわけではなく、
若かりし頃の私は、今より相当に生きづらく、
現実に耐える理由が必要だった。それだけ。
生きる理由欲しさに、
死後の世界を仮定してみただけなので、
宗教観に基づいた解釈ではありません。
色んな要素を取り込んだ架空のお話。
死んだらお終いなら、好きに生きればいい。
ただ、その好きの中には、
死ぬことも含まれている気がして、怖かった。
好きに生きることは、生きる理由にはならない。
そこで、死後の世界観です。
たぶん、凡そ、ほぼ、
死んだらお終いなのだろうけれど、
万が一、魂とか、意識みたいなものが
生き残ってしまったら…
今の人生じゃ困る。
閻魔様とか、神様の天秤とかに裁かれるなら、
こんなに大変だったのです!
あんな家庭環境に産み落とされたからだ!
とか、文句を言う機会はあるのかもしれない。
が、情に訴えて言い逃れできるできるほど、
あの世が優しいとは思えない。
肉体がないなら、喋る必要もないだろう。
テレパシーでの会話なら、隠し事もできないはず。
人生スッポンポンじゃないですか。
もはや、言い逃れられない。
どうする?
わたしの魂。
絶体絶命のピンチ…
もう死んでますけど。
いかに公平であろうとも、
言いなりに裁かれるのは嫌だったので、
私にとって都合のいい死後の世界を考えたわけです。
いやぁ。お恥ずかしい。
生きづらさと同じだけ、我も相当ですね。
そんな我の強い私が採用したあの世では、
答えにくい質問をされることになっております。
「人類は、必要ですか?」
「この世界は存続した方がいいと思いますか?」
何様って感じだけれど、
我の強さは、自己不信の強さでもあり、
虚栄心や不足感を満たすためには、
そのくらい背負わされなければ、
納得しなかったのだと思います。
質問は答えにくければ、なんでも。
大事な人が川で溺れていたら、どちらを助けますか?
とか。
大切な人の尊厳死を選びますか?
とか。
頭で考えた正解に心が追いつかない状態というか。
心が引き裂かれる、正解のない選択というか。
私と言う人生を通じて知り得た世界、人類、社会。
生き延びるためのシステムとしての自我。
主観から逃れられないからこそ、私だけが知る世界。
人生の総括として、正解のない質問に回答する。
自分なりの答えが出せる私になるために
この人生があるとしたら、
生きる理由にならないだろうか?
正解のない選択なんて、
今の私でも答えの出しようがない。
どちらを選んでも
後悔が残るだろうし、
選んだところで、行動が伴うかは
そうなってみないとわからない。
選びたくない。
だから、まだ生きていられるのかもしれない。
fumori
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