
嫌いなものを嫌いになれないと、嫌いなものに付き纏われる現実になる。
まどろみの中で、幼い頃の自分に出会った。
傍若無人で、自分のことしか考えず、
好き嫌いが激しい私が、嫌いだった。
なのに、改めて見ると、
わがままで、自分勝手ではあるのだけれど、
思っていたほど嫌じゃなかった。
嘘がないから。
好き嫌いの激しい私は、
好きも嫌いもあるこの世界が大好きだった。
嫌いなものが、この世界に存在していることを
なんとも思ってなかった。
嫌いなものは、嫌い。以上。
理由も理屈もなく、疑う余地すら無い絶対。
なのに、嫌いなものもある世界が好きだった。
面白いことで溢れていたから。
嫌いなことになんか、構ってられなかった。
たぶん、そういうことなんだ。
好き嫌いの激しさは、悪いことじゃない。
好き嫌いを押し付ける厚かましさや、
誰かの好きを否定することが問題で、
嫌いな世界に深入りせず、
好きな世界に目を向けて、
夢中でいればよかったんだ。
あるがままを否定せず、
あるがままを受け入れる。
ジャッジしない生き方に憧れた。
けれど、ただ見つめるという愛の眼差しを知って、
好意も嫌悪感もないただ認識されることの安堵を知って、
ありのままを受け入れることは愛ではなかったと知った。
否定しないために、
受け入れたくないものまで肯定しようとしていた。
否定しないことと、肯定することの間がなかった。
だから、好きじゃないものまで、
嫌いにならない方法を探していた。
世界を認識しているのが私なので、
情報空間では、嫌いも好きに書き換えることができるから。
けれど、それは偽りの世界。
価値観を変えることで、
理想の世界を認識しようとして、
嘘が溢れる理不尽な現実を生きる羽目になった。
というわけだ。
好き嫌いの激しい私に、聞いてみた。
「私のこと、嫌い?」
聞いておきながら、
求めている答えを期待していた。
好きと言って欲しい。
嫌いって言われたらどうしよう。
彼女は嘘をつかないし、
理屈に屈したりしないから。
彼女が真実だから。
そして、彼女の答えは、自我の予想を超えてきた。
「自分のことを嫌いな人なんているの?」
自分を嫌っている私に、そんなことを尋ねる?
そんなことより、私の本音は、
自分のことを嫌ってなどいないらしい。
彼女は嘘をつかないから、
信じられなくても、それが真実。
命ある限り、命が生きようとするように、
自分を嫌いな人なんて、いないのかな?
じゃあ、私を嫌っていたのは、誰?
本音で生きることにリスクを
感じているのは、自我。
自我は時間軸を生きているから。
予測不可能な未来を生きるために、
過去から学び続ける働き。
失敗を避け、日々を成功例とすべくサバイブしている。
命や本音には、今しかない。
だから、許せない過去もない。
自我が秘密にしておきたい失敗すら、
体験の一つに過ぎない。
ポジティブな出来事も、
ネガティブな出来事も、
どんな一瞬も等価。
最高に幸せな瞬間も、
世界の破滅を願うほど落ち込んでいる時も、
なにもない退屈な日常も。
好き嫌いが激しい彼女には、
好き嫌い以外のジャッジはない。
自由だから、偽る必要もない。
損得や常識には縛られていない。
忖度がないから、清々しい。
わがままなのに、嫌味がない。
そんな私を手放して、
恐れと不安とダメ出ししかない自我を生み出して、
本音をなかったことにして生きてきた。
愛されることと引き換えに、
引き受けたものが自我なのかもしれない。
そんな歪な愛しか知らない自我を成仏させる。
私を卒業する。
嫌いなものを嫌いになれないと、
嫌いなものに付き纏われる現実になる。
ダメ出ししたり、恐れたり、
不安になったり、バカにする自責の念。
そういう耳を傾けたくない声も拾ってしまう。
相手にしたくなければ、嫌いって言えばいい。
嫌いは、存在否定とは違う。
嫌いでも、理解して、受け入れなければ…
なんて思わないだけ。
嫌いだから、嫌い。
聞きたくないから、聞かない。
共存していても、
共に生きたりはしない。
自分のことを嫌いになるって
発想のない本音と生きてゆく。
自分の世界が好きで、
自分以外の世界が嫌い。
そんな子供じみた世界観で出会う
自分以外の好きな世界。
それが面白くて仕方がなかったのかな。
嫌なことが目に入らないくらい。
社会生活においては、ズルい大人もやるけれど、
1秒でも長く肯定も否定もない眼差しで、
世界を眺めていたい。
本音が見ている世界と共鳴したい。
fumori