運がいいより、生きていることを肯定できる方がいいのかも。
なんとなく、
これまでとは違っている気がする。
具体的に何がと言えるほど
大きな変化はないのだけれど、
置き忘れた傘が戻ってこなかったとか、
出かけたら雨に降られたとか、
ちょっと運が悪くなった?
と思うことが続いている。
これまでが良過ぎただけなのだけれど、
これまで通りではない気配とか、予感がして、
うっかりしていられないと思っていました。
が、悪い予兆でもないらしいのです。
死が怖いから生きているだけ。
ずっとそう思っていたのに、
あるとは思っていなかったものに
思い至ってしまった。
生きる目的とか理由とかは、
相変わらずわからないくせに、
「今、生きていることへの歓び」
みたいなものが、どうやらあるらしいのです。
実感も体感も、未だにないですし、
それが、「歓び」かどうかもわからない。
そもそも、そんなポジティブな想いが
私の中にあるとは思えない。
ただ、生とか、今とか、命とかを
肯定する勢いみたいなものが、
じんわりと滲み出てきている…
気がするのです。
あると言い切れないのは、
感覚が捉えきれないから。
生きたいとか、腹が立つとか、
明確な意思や感情なら体感でわかるのに、
それは、なんだかモヤっとしている。
ないようでいて、なにかある。
あるっぽい。みたいな。
それが、「生きている歓び」なら、
もっと派手にアピールしてくれれば、
私だって生きることに前向きでいられるだろうに、
あるかないかわからないままでは、
現実の状況に左右されちゃうよね。
例え、現実が私の心象に過ぎなくても、
嫌な現実なら、嫌な人生と認識してしてしまうし、
なら、楽しいことばかりの現実がいいとか思っちゃう。
けれど、もし、私の中に
「今、生きている」ことを肯定する力が存在するなら、
どんな現実でもものともせず、
生きている今と、この先の未来を生きている私に
目を向けることができるかもしれない。
前を向いて生きてゆくというのは、
生きていることを肯定する力がもたらすものだった。
なら、
私が生きることに対して後ろ向きだったのは、
理不尽な現実のせいというのは表面的な理由で、
生きていることへの肯定に無自覚だったからかもしれない。
もしくは、今、生きていることを自覚的に肯定できないから、
死の恐怖に呑まれて、老後の不安に苛まれて、
過去を諦めて、無力な現実を生きているのかもしれない。
これまでは、死の恐怖を拒絶することが、
生きることの肯定に繋がっていたのだと思う。
死が遠くない未来になったことで、
生きていることに対しての思いが、
ナチュラルに感じられるようになったのかもしれない。
それが、あるかないかわからないくらい
モヤっとした存在であることが謎だけれど、
生きていることを肯定する働きが、
私の中にあると思えたことは、とても心強い。
あると自覚して初めて気づいたのだけれど、
私が欲しかったのは、それだった。
存在への肯定。生きていることへの歓び。
現実がもたらす幸福とは別に、
何があっても、なくても、
生きているだけで命は嬉しい。
いい人でいなくても、最低最悪な私でも、
その私の人生を歓んでくれている。
今に、無条件に、存在していてもいいのなら、
この先、生きて行けるかもしれない。
だから、運が悪くなったのかもしれない。
これまでは、
生きている歓びなんてないと思っていたから、
現実のあれこれに、一々めげていた。
だから、守られていなければならなかった。
けれど、生きていることを肯定できれば、
現実にガッカリしても立ち直れるし、
運が悪くても、リカバリーできる。
頼って、守られて、安心させてもらえていた世界から、
自分を信じて、好きに生きてゆく人生へ。
準備が整ったサインが、
運の悪さだったのかもしれない。
そう思って、
めげずに日々を過ごしてゆこうと思う。
fumori