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人と関わるということ。

やっと認めることができた。
愛されていたことを。

認めてしまえば、あれだけ生きづらかった過去が、
愛に溢れた記憶として見えて来るのだから、
人の記憶なんて当てにならないものですな。

とは言え、全部がハッピーなんてことはなくて、
苦しみ、悲しんだ私は、変わらず過去にいる。

愛されることを求め続けている私だ。

彼女たちのために、認めるわけにはいかなかった。

彼女たち以外の私は、存分に愛されていたなんて。
とても言えない。立つ背がなくなってしまう。

いらない存在にされてしまうから。
いないほうがいい存在になってしまうから。

愛されるために、私を捨てることになるから。

だから、愛されていた私を
認めるわけにはいかなかったのです。


全部が愛だったかは、わからない。

彼女たちが決して受け入れなかったものの中には、
私にとって、愛でないものもあっただろうし、
愛とは気づかないそれもあっただろう。

愛だと思って与えたものが、そうでなかったことも、
愛そうとしても愛せない葛藤や情念も含まれていたように思う。

育てにくい子供だったことは、私のせいじゃないけれど、
愛そうとする努力は必要だっただろうな。

役割として愛するフリをすることと、
フリさえなく否定されることとの
どちらを愛と感じるかは、個人的なもの。

だから、どちらでもよいのだろう。

大切なのは、なんであれ、与えられてきたこと。

与えられた全てが愛じゃなかったとしても、
当たり前に受け入れて、無自覚に自分と同化させてきた。

今の私の価値観の殆どは、与えられてきたもので、
自分で獲得したつもりになってるものなんて、上辺だけ。

愛や愛でないものとごっちゃになって、
溺れるほど過剰に与えられてきたもの。
それが、今の私を支えている。

私や時代にフィットしない価値観もあるけれど、
十分に与えられなければ、選ぶこともできなかった。
与えられるままに、自分を作り替えていただろう。

愛されることを求め続けながら、
私にとって愛ではないものを拒否してきたのは、
どこかで知っていたからなのだろう。

愛されていたことを。

与えられた全ては、愛ではないけれど、
その根底にあるものは、愛なのだと思う。

与えられた私がいたということは、
与える相手がいたということ。

行為を介して、互いの存在を認め合う。
相手の反応を通じて、
自分が実在していることを知る。

自分が実在することに、安心する。

それが、私にとっての「関わり」なのかもしれない。


人と関わると、想いや、感情や、判断や、役割や、
個人的な価値観の反応に右往左往してしまうけれど、
その目的が、「実在を確かめて、安心したい」
ということであれば、生じる反応に関しては、
案外、なんでもいいのかもしれない。

友好的であれば、気分よくいられるというだけで、
価値観を否定し合うような関係性であっても、
根底では、相手の存在を認め、反応し合うことで、
自分の実在を確信し、安心しているのだとしたら、
目的は果たしている。

感情的にはネガティブだとしても、
関わりで得られるものは、同じもの。

相手を認識する。
個人的な価値観が反応する。
相手の反応を受け取る。
反応する私と相手が存在する。

関わりとは、実在を認め合うこと。
そこに、安心する。

ポジティブな交流を求めるのは、
相手を認め、認められているというだけでは、
満足できないから。

愛されていなかったという不足感を補うために。

だから、ウザかったり、クセがあったり、
アクが強かったりするのだろう。

反応に反応するという面倒臭い関わり方をして、
構ってもらおうとしてるのかな。小学生じゃん。

人と関わるのが怖かったり、
面倒だったり、疲れたりするのは、
補うために、良い反応を期待しているから。

腹が立っても、許せなくても、恨んでも、
反応しあっているのなら、いいのかも。

ネガティブな反応であろうと、
相手の反応が期待通りでなくとも、
私の反応が理想通りでなくとも、
反応するということは、相手を認識し、
相手に認識されていることだから。

あなたは、今、ここに存在していますよ。

そう認め合っていることだから。
そこに、安心していればいいのかも。

反応のタイプに、意味を見出さなくてもいいのかも。

そう考えると、少しは、
人付き合いが楽にできるかもしれない。

愛されなくてもいいし、
必要とされなくてもいいし、
嫌われてもいい。

相手の意見を否定することは、
相手の存在を否定することではない。

意見や価値観を否定するのは、
私が実在しているから。
それを認めているから。

価値観が合わないからといって、
相手を言い負かす必要もない。
正しさを証明する必要もない。
理解する必要もない。
価値観を合わせる必要もない。

ただ、互いに存在していることを認め合う。
それが、人との関わりの目的…

ということにしてみようと思う。

私は、もう大人なのだ。

自分の世界に関しては、自分で選ぶことができる。

楽に生きるために、世の中に迎合してもいいし、
抗って、苦難に生きるのもいい。

認められなくても、
愛されなくても、
許されなくても、
生きていていい。

認められるために、
愛されるために、
許されるために、
生きなくてもいい。

感情は、私を知るためのもので、
相手を計るものではない。

相手を知るためではなく、私を知るため。

誰かとの関わりは、
私が存在していることを認めてもらうため。

利己的なのだ。とてもとても。

私のために関わってもらっているので、
ムカつくのも、惨めになるのも、
相手のせいではなく、私のため、なのかな?

なので、ちゃんと本音でいよう。

どんなに社会性に欠ける自分が出てこようとも、
本当の私を知ろう。

その私を引き出すために相手が関わってくれている
くらいに思っておこう。

腹の立つ相手を好きになることなんかできないし、
感謝なんてもってのほかだけれど、
反応している自分がいて、私が存在していることに
安心させてもらっているのだから、私もそうしよう。

そういうことだ。

いつからか、諍いが嫌で、わかったふりをして、
聞き流すようになった。

そうすることで、
自分の中がわだかまりでいっぱいになった。
それらを納得させるために、理屈を捏ね始めた。

それを、やめよう。

相手の意見を否定することは、
相手を否定することではない。

反応することそのものが、
相手の存在を認めること。

自分の存在を認めて欲しいから、
相手の意見を否定するのかな?

だとしたら、
わかったふりをして、聞き流すことこそ、
相手を拒絶しているってことなのかもしれない。

存在しているものを否定しては、ダメなのだ。

私がどう思おうと、
社会がどう裁こうと、
今、この世界に存在しているものを否定しない。

存続させるかどうかは、また別の話。

先ずは、存在しているものを否定しない。
それが、始まり。

fumori


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