問題は、理由ではなく、ジャッジによって引き起こされるネガティブな感情かもしれない。
影響力なんかないと思うから、
書いているのだけれど、念のため。
「死」にまつわることです。
相対的な価値観は、比較によって
自分の世界を構築するためのもの。
そう信じて、創り上げてきたけれど、
結局、また壊すことになってしまった。
あまりに息苦しくて。
なにもかもが、もう無理、だった。
足元がグラつくぐらい価値観が変化したのは、
これで3度目。やっと、全てあることを感じられるようになった。
ほんの触りだけれど。気配程度に。
心の中に、戻れる場所を見つけた。
そこに還れば、安心できる。
そんなセーブポイント。
なのに、まだ死にたい、と言われる。
それが、不思議だった。
もともと、私は死にたくなんかないのだ。
なのに、そんな恐ろしい願望が思い浮かんでしまうのは不本意とは言え、あるものはあるわけで、理由に心当たりはないものの、思い浮かんだならその願望はあるのだろう。
ということにしてみた。怖かったけれど。
未だに、死を許容するのは不安だし、本当に死にたくなったらどうしようか、ドキドキしている。
死にたい理由はわからない。
ただ、そう願うのは、
別の生き方があるから、と思っていた。
死にたいの反対は、生きたい。
その対極の価値観が、死にたいという
概念で現れていたんじゃないか?
でもね、よく考えてみたら、
死にたいの反対は、生きたくない。
生きたいなら、死にたくない。
あるとない。
あるがポジティブ。ないはネガティブ。
だとすると、
死にたいって言葉は、
ある意味ポジティブなのかもしれない。
生きたいと同じくらいに。
私にとって、死はネガティブなものだった。
死にたいなんて願うことは、間違っている。
よくない。悪いこと。
だから、死にたいと言われると、ドキッとした。
そうならないことを願い、
そう思わなくなるよう必死に願った。
けれど、死にたいと思うことをありにしたら、
死はネガティブのカテゴリーから外れた。
ネガティブでなければ、
恐怖や不安は生まれない。
かと言って、ポジティブとは思えないけれど、死という概念に怯えさえしなければ、ネガティブとも思わない。
ただの、思いつき。幻想。空想。
なんの意味も、原因も、理屈すらないもの。
それを生み出すなにかが、潜在意識とかにあるのかもしれないけれど、原因がわからない以上、取り除きようがない。
そもそも取り除こうとするから、恐怖に捕まった気がする。
問題は、原因ではなくシステム。
できるはずもないのに、ある思いを、なくしようとした。できないから不安になって、現実まで不安が及んでしまう。
なら、不快な価値観があっても、
あるまんまにしておけば、
現実には作用しないってこと。
あるものは、ある。
嫌でもある。なくなって欲しくてもある。
嫌だ、なくなって欲しい気持ちも、ある。
全部あるって、たぶん、そういうこと。
今は、全てがある状態。
今を刻む命にも。
私たちは、命なので、生きる一択。
死ぬことなんて、選べるはずもない。
死にたいと思っても、
命がある限り死ぬことはない。
死にたいのは、現実じゃない。
空想で、幻想で、思い込みで、思いつき。
気分みたいなもの。
思いついてしまったとしても、
責任なんか取らなくてもいい。
原因なんか、わからなくてもいい。
命は、生きる。
その前提は覆らない。
私はそういうことにした。
信じれば、適用される。
無意識の前提になる
と、期待している。
あくまでも、私の場合。
死はただの現実。生のゴール。
いつかは辿り着く現実。
けれど、今ではない。
今のところ、いつかの話。
今は、いつだって生きている。
問題は、死にたいと思う理由ではない。
死をネガティブとジャッジすること。
今ではない死に怯えること。
ある感情を、ある思いを、
あるものを、なくそうとしないこと。
それを知るために、わざわざ、刺激的なワードを選んで、攻撃してきたのかな?
私なんてない。
オリジナルの価値観なんてない。
それに気づかれたら、生きていられない存在。
赦されず、愛されず、生きられなくなる存在。
それが、エゴだとしたら、
あることと、存在し続けることを、
認めて欲しかったのかな。