平和と言葉と美しさ。
唐突に、平和について考えてみたら、
摩訶不思議な答えが返ってきた話。
平和を望むということは、
改善すべき課題があるということなので、
現状に対する不満。
不満を満たそうとすれば、
満たされないの法則が働いてしまう。
平和に限らず、なにかを訴えると言うことは、
賛同を得る代わりに、反対意見を生み出して
しまうものだから。
たぶん、問題定義が、
無意識の問題を生み出す。
そんな構造。
システムだとすると、正しさに限らず、
自分がいいと思ったものや、
悲しかったこと、嬉しかったことさえ、
否定の対象になってしまう。
主張するつもりがなくても、適用されてしまう。
そっちだって勝手に言っているのだから、
私だって、勝手に言っていい。
ってことになると、
何を言ったって、内容とは無関係に、
喋るだけで敵を作ってしまう訳ですよ。
言語の世界は、恐ろしい。
もちろん、言語があるからこそ、
英知は継続されるし、
発展してゆくのだろうけれど、
その代償として、人が争っている。
そんな見方もできてしまう。
人が争うことで、進化発展が生み出される。
戦争に限らず、主義主張や、
一般論の違いや、家庭の常識。
言葉は、争いを生み出す。
そんな性質があるとしたら、
平和を訴えることそのものが、
平和を乱すことになってしまう。
さて、どうしよう?
たぶん平和は、
言葉で生み出すものではないのだろう。
手段としての言葉は必要だけれど、
言葉である限り、好きに解釈される。
真意は伝わらない。
口にした途端、
相手の武器になってしまうこともある。
言葉を人質にしない。
となると、話はすれども、
話の内容を伝えようとしない。
そんな訳の分からないことになるわけです。
気持ちの強さのまま、言葉に感情を乗せたり、
訴えたりすると、逆に伝わらなくなることは、
誰しも経験があるでしょう。
良かれと思ってしたことが、
相手にとっては迷惑だったり。
もちろん、言動そのものが迷惑な場合もあるけれど、良かれと思ったことを受け取ってもらえないのは、ほぼ気持ちの領域に入り込んでいるから。
恐ろしいまでに、感情論なのですよ。
無意識の。
なので、伝えるのは、想い。
心の有り様。
伝えたい言葉があるなら、
先ずは、心を表す。
相手に響くのは、言葉ではなく、感情。
けれど、情熱のまま、
言葉に感情を乗せても伝わらない。
主張は、分岐させるもの。
意見が合わないとなれば、
人は無意識に警戒する。
敵と見做す。
そうなったら、敵ではないことに、
言葉を尽くすことになる。
なので、先ずは、相手に安心してもらう。
相手がムキにならない心の有り様、
反発したくならない心って、なんだろう?
大切にしたいと思うもの。
壊したくないと思うもの。
優しさ。美しさ。
守らなければ、簡単に壊れてしまうもの。
相手の中に、自分の大切なものを見出した時。
心の中にあって、互いに共通する
なにか柔らかいもの。
それを、愛と呼ぶのでしょうか?
それが愛なら、今ある全て。
意見の異なるあなたと私が、
ともに存在する今に対する肯定。
相手への尊敬、とか親愛?
相手を、その命を、
かけがえのない大切なものだと
確信している状態でいること。
つまりは、
自分の命をどれだけ敬っているか?
問われているのは、
自分の命に対する想い。
自分の命を敬えたら、
主義主張は真逆でも、
同じ命である相手への親愛は消えないはずで…
って、苦行化してるし。いかん。
完璧主義は、自滅する。
私の願う世界平和は、
ものすごく身近なことからできる反面、
机上の空論として葬ってしまいたいと
願わずにはいられないくらい
面倒なものでした。
うん。心の中で願うだけにしておこう。
人間だもの。
いくら同じ命だとしても、
相手の人間性を尊敬できなければ、
親愛の情なんて抱けないよ。
危害を加えてくる相手を、
尊敬なんてできるわけがない。
本能が拒否しますって。反射ですよ。
自分が可愛くて、当然じゃないですか。
それでも、
生きることは、心の有り様を、
無意識に表現し続けること。
醜い心は、今日もまた
ダダ漏れていることでせう。
鬼は腹から出してはいかんのです。
殺すことができないのだから、
人に迷惑をかけてはいかん。
なので、先ずは、
自分の命を敬ってみようかな?
執着してきた割には、大事じゃなかったから。
自我が肥大化したのは、
大切にして欲しかったから。
自分では大切にできなかった。
大切に思えなかったから。
私が自分を必要とは思えなかった。
なにを抱えていたのやら…
そして、今もなにを抱えているんだろうね。
未だに必要性を感じることはないのだが、
なら、自分を必要する必要もないのだろう。
生まれたから、死ぬまで生きる。
理由も意味もない。
自我の思いは、命には無関係。
命は、ただ、今を生きている。
どうせ表現しなきゃならないのなら、
そんなまろやかな命がいい。
鼻に付く自我がなければ、
命そのものに角はない。
まろやかな命で、和やかに過ごす。
鏡餅みたいにふっくらと。
角も嫌味もない佇まいに憧れる。
命を敬うって、
お供えするってことなのかな?
自分であって、自分ではないもの。
敬えるかとしたら、自分ではない方。
自分のものではない命を、敬う。
与えられるそれを受け取り、
自分の命を供える。
自分ではない命を生きること。
それが、世界平和の初手なのかもしれない。
fumori