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揺らぐことのない死を踏み台にするという案。

探していたのは、足場。
絶対に崩れることのない
揺るぎない場所。

自分軸とか言われているものなのだろうけれど、私自身はいつまでたってもブレブレで、とてもじゃないが頼りにはできない。

さりとてこの無常の世に、揺るぎないものなんてあったっけ?

多分、祈りはそれに近い。
在ると証明できない存在を信じきることが、私には難しいけれど。

世界に存在するもので、絶対なもの。
自然。無常。命。
そして、死ぬこと。

生きている限り、必ず死ぬ。
誰もが等しく死んでゆく。
死は不変だ。

とは言え…
死なんてものを拠り所にできるものだろうか?
心が病んでしまわないかな?
死に憧れたり、自分を蔑ろにしたり、世界を恨んだり、運命を呪ったり、踏み込んではいけない領域なのでは?

理不尽な現実。
不確実な未来。
満たされない過去。

人生のどこを切り取っても、どっちへ向こうとも、生きることはほぼ辛いのだけれど、それを凌ぐほど圧倒的に死は怖い。
文句を言いながら生きている方がマシ。

そう思っていたのだけれど、遂に逃げ道がなくなり、死と向き合うはめになった。

未来は可能性に溢れているとか、希望があるとか、明るく表現されることが多いけれど、つまるところ人生のゴールは、死だ。

見ないふりをしたって、行き着く先はそこ以外にはないし、寿命という期限があるから、今、生きていることになる。

死がなければ、生きていることを立証できない。

生きていれば死ぬ。
死ぬまでは生きている。

この世界は、二つの概念が同時に生じる。
肉体によって、個性を与えられ、比較することで私が生じ、肉体を失うことで消失する私。

それが、生きるということだとしたら、死は思いがけなく安らかなものなのかもしれない。

比較と二元論からの解放。
何者にも囚われず、無いままに在るということ?在るも無いもないのか?

私という肉体由来の偏りから解放されることが死であるなら、それこそ完全なる自由だ。

誰かと比較すれば、自分の不足に気づいてしまう。なんとか満たそうとしてしまう。
けれど、肉体がなくなれば、そんな必要もない。

むしろ、欠けたままでいい。
埋められるものではないから。
そもそも欠けてなどいないのだから。

満ち欠けは、ただの反射。

もしも私が太陽なら、月も地球も、みな満ちて見えるし、惑星が存在しなければ、見渡す限りの闇しかない。
光を反射してくれる存在がなければ、自分が太陽として輝いているなんて、思いもしないだろう。

ポジションが違うだけ。

満ち欠けは、地球から月を眺めているから気づけること。
自分が月なら、地球はどう見えるのだろう?

私は、地球ではないのかもしれない。
有限の肉体は間違いなく地球のそものだけれど、精神は無限の領域。死の範疇だ。

生が不自由で、有限で、二つの概念から成る世界であるなら、死は、自由で、無限で、有無すらないはず。

なら案外、いい足場かもしれない。

 fumori 

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