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自由は死と似ている。
精神は自由である。
ある時、そういうことにした。
そういう世界で生きることにした。
心の中では、なにを思ってもいい。
誰かを憎んでも、恨んでも、嫌っても、偏見だらけのジャッジだって、許す。
いつでも自分の味方でいる。
腹が立ったら、なに、あれ?と呟く。
ぱっと見変と思えば、うわー(失笑)
今では、人を見下したり、疎ましく思ったりする自分にダメ出しすることは少なくなったけれど、以前の私は、自分に許せない分、そういう人を無意識に蔑んでいた。
人をこき下ろしたくなるのはジャッジがあるからで、他人に文句を言う前に、自分の考え方を変えたらいいのに。
そんな何様の私は、他者を批判したがる自分にダメ出しすることで、いい人でい続けようとした。
悪口を言ってる人を下に見て、自分のレベルを引き上げようとする無意識のマウント。
私は、この人よりも優れている。
その証拠集めをし続けないと、生きていられないほど、自己評価が低かった。
痛々しい限りの黒歴史だ。
そんな暗黒の自伝は、今なお綴られているのだが、自分の思いつきを放置できるようになったことで、他人の自由も認められるようになってきた。
死を望む以外は。
死にたいというワードには、無条件で反応してしまう。
迎合しても、無視しても、なにをしても言いなりになってはくれない。ベッドから出て現実が始まるまでは、悪夢との戦いは続く。
今朝もそんなバトルが始まり、受け入れたくない思いを川に流すイメージでやり過ごそうとしている最中、ふと思った。
私が恐れているのは、本当に死なのだろうか?
だって、死ぬことは確定した未来。
無意識だって承諾している理。
なのに、そんなわかりきったことを恐れることなんてあるのだろうか?
恐怖や不安は、知らないから、定まらないから生まれるのでは?
だとしたら、私が恐れているのは、死そのものというより、死にたいという自分なのではないだろうか?
なにをしても言いなりにはならない、コントロールできない怪物。凶暴な野生。
閉じ込めておくことしか出来ない、耳を塞いで、無視し続ける以外に手立てのないモンスターが、暴れ出して、逃げ出したら?
なにをしでかすかわからない。
思ったまま口にして、行動して、他人の気持ちを推し量ろうなどと考えたこともない。
単純で愚かで粗暴。
それが、自分自身の本性だなんて知られたら?
とても生きてはいられない。
私が恐れていたのは、自分自身と、怪物である自分を知られること。
人から嫌われ、誰にも受け入れられず、孤独に生きながらえること?
そんな人間であることを認めたくない?
偉大なる理想像を失うこと?
自尊心を損なうこと?
そんなバベルの如きプライドの高さを守るために、支配しようとしてきたのだろうか?
力づくで閉じ込め、言いなりにはならないなら、飼い慣らそうと。
モンスターはどっちだったのだろう?
粗雑な野生?
それとも、狂った思考?
これが、自分だ。
と、言える自分は、私ではない。
自分を肯定できるなら、自分なんてない必要ない。日々、思うことをただ感じていられるはずだから。
言語化された感情に反応してしまうのは、そっちサイドの自分の存在を否定しているから。
言わせておけばいい。
私の場合、現実的に死にたくなんてないんだから。命を信頼しているし、そもそもこの命は私自身のものではない。
命は、地球の一部。
今のところは、そう思っている。
それでも、死にたいと言われると、無意識に心臓がキューっとなる。
その声を野放しにしていいものか、不安になる。
本当に死にたくなったら、どうしよう?
多分、そこ。
命を信頼するとか言いながら、本当に生きることを選択できるのか?
不安なのは、疑っているから。
命を信頼し切れないから。
命は、ただ生きるために存在する。
養うことで、命は繋がってゆく。
死というゴールに向かって。
けれど、死ぬのは怖い。
だから、前を向けない。
記憶は生きた証だから、過去に浸っていたい。
たとえ、辛いだけであっても、死への恐怖と向き合うよりはマシ。
けれど、死を願う概念は、死よりも恐ろしい。
消すことができないなら、解き放つしかない。
鍵を握りしめたまま、立ち竦む。
檻の向こうは深い闇。怪物の姿は見えないけれど、そこにいることはわかっている。
向き合っていることも、目が合っていることも。
いつの間にか、私を見ていた。
光の中で立ち竦んでいる私。
怪物が見ている私。
街灯の下で、今にも腹を下しそうな顔をしている。鍵なんかかかっていないのに…
指先で押せば、扉は開くのに…
出ようと思えば、いつでも出られるのに…
意気地が無い。いつもそう。
言い訳を考え出しては、やっぱりやめよう。
そんな人生を死ぬまで生きたいのなら、そうすればいい。窮屈なのはお互い様。私が不自由だと感じているなら、同じだけあいつも味わっている。
しかも、自分では無自覚なのだから、哀れな奴。
生きるためのノウハウ。
あるべき自分。
それらは、私のために採用されたはずなのに、私を支配する狂気の思考と化している。
自分を否定し、生きていていいのかさえ自分で決めることもできず、人よりも優れているように振舞って、辛うじて存在意義を見出している。
閉じ込めているのは、怪物なのだろうか?
檻の向こうは、牢獄なんかじゃないのかもしれない。壁に繋がれた鎖も、首輪も存在しない。
檻の中にいたのは、私だ。
私がいるのは、手入れの行き届いた庭園。
街灯があり、夜でも明るい。
ここにいれば、安心できる。
檻の外には、光は届かない。
私の世界には、太陽がない。
もしくは、檻の外には反射するものがない。
自由だから。価値観の範疇を超えている?
死を願う怪物こそが、自由の象徴。
私を規定するものがない世界。
だから、何も見えない。暗い。怖い。
可能性は、希望の光なんかじゃない。
暗闇を手探りで進んでいくようなもの。
手に触れた宝箱に、宝石が入っているとは限らない。ただの石ころかもしれないし、ミミックかもしれない。
それを、自分で拾い集める。
腕を食いちぎられたとしても、進み続ける?
可能性の話なら、死んでも教会で生き返るという設定にしておけばいっか。
私に必要なのは、死ぬことなのだろう。
プライドをへし折るために。
バカは死ななきゃ治らない。
だから、一旦死んでみよう。
檻から出て、暗闇の自由を彷徨ってみよう。
怪物を探しに行こう。
自由って、大空を羽ばたくとか、夜の街を見下ろしながらピーターパンのように飛ぶ明るいイメージだったけれど、私の自由は真逆だな。
暗くて、先が見えなくて、恐る恐る進む感じ。
私の自由は、死と似ている。
fumori