見出し画像

現実を受け入れられないのではなく、捨ててはいけない理想があるのかもしれない。

私には、自分を苛む癖がある。

罪悪感とか、無価値観とか、
自分を嫌悪する感情に囚われて、
気持ちを切り替えられないまま
1日が終わってしまう。

ポジティブな感情だけで過ごしたい
なんて贅沢は言わないけれど、
ネガティブな情念に支配され、
現実に支障をきたしてしまうので、迷惑している。

自責の念に対して、
どう対処したらいいのだろう?

理性で押さえつければ、
抑圧されたシャドーの返り討ちに合う。

共感して、受容すればいいとわかっていても、
受け入れたフリはできても、
感情的な抵抗はどうにもならない。

理想とは違う自分を許せない私がいる。

一方で、理想のために
現実を無駄遣いする方がどうかとも思っている。

理想とは程遠い、
等身大のイケでない私が本当の私なのだ。
それは、変えようがない事実。

なら、受け入れるしかない。
私は、辻褄が合う考え方が好きだ。

なのに、それに抗う私が未だにいる。

それが、不思議でならなかった。

現実を受け入れる事が、
なぜ、これほど難しいのだろう。


諸々の自己嫌悪は、
突き詰めれば嘘に行き着く。

本音を偽ろうとする事が、
心理的葛藤の原因だと思っている。
今のところ。

本音を情報でコントロールしようとするから、
否定された本音が、
自分を愛せない、許せないという形で返ってくる。

自分を愛せないから、
誰かに愛してもらいたくなって、
承認欲求や自責に転化してゆく。

あくまでも、現時点での経験論だけれど、
私の思考パターンは、そうなっているように思う。

なので、自分自身には嘘をつかずにいられるよう
内心の自由を徹底的に獲得してきたつもり。

なのに、ちょっとした心配事や失敗でさえ
言い訳を探してしまう。

誰かのせいにしたくて安心していたい。
もしくは、自分を責める事で、思考停止していたい。

痛い現実を受け入れることを避けたい。
ネガティブな自分を認めたくない。

そんな無意識な保身が働いている。

それをどうにかしようとしてきたけれど、
今現在、どうにもなっていない。

なら、それは、
どうにかするものではないのかも?


今が最善。

だとしたら、
できない理由ではなく、
そうなっていない現状にメリットがあるはず。

等身大の自分や望まない現実を
素直にそのまま受け入れたいのに、できていない。

求めているのは、
愛そうとしなくても、自分を愛せている状態。

失敗しようが、どんな自分だろうが、
罪悪感や無価値観は軽減される実感。

それが、デメリットになるとしたら?

例えば、失敗してもめげないのはいいけれど、
今の私のまま、しょーがないで片付けてしまったら、
なにも学ばないだろうし、変わろうともしないはず。

どんな自分でも受け入れるということは、
非道でも、周囲に迷惑をかけるほど利己的でも、
肯定的に自分を認められる状態かもしれない。

無責任なナルシストだ。

現実に抗うネガティブな感情は、
そうならないためのサインなのかもしれない。

無責任なナルシストにならないための
私の中の責任感と利他的な良心みたいなもの。

自由の対価としての責任。
失敗を学びに変える意欲。
保身と利他とのバランスを示す良心。

それが、
理想を捨てられない理由かもしれない。


現実を受け入れられないのではなく、
捨ててはいけない理想がある。

なら、ネガティブな感情は、
それ以上進んだら、道を踏み外しますよ
というサインなのかもしれない。

自己受容に依存して、
無責任なナルシストに成り下がらないために。

ネガティブな感情は不快なので、
なるべくなら感じたくはないけれど、
計り知れないチャンスなのかもしれない。

責任を果たすための。
学びを得るための。
自他を対等に扱うための。

無条件で愛せる私でいるための、羅針盤。

ネガティブな感情は、
落ち込むためのものではなく、
愛せる自分への導き。

だから、感じないようにはできないもの
なのかもしれない。

それは、両親から愛された愛の再現かもしれない。
愛される私への記憶による支配かもしれない。

両親の価値観にハマっている事で、
安心していたいのかな?

無責任なナルシストとしての私を愛するのか?
無責任なナルシストにならないよう自分を変えるのか?

無責任なナルシストという本性を認め、
そうならない方を選んでゆく、かな。

今日の私は、どちらを選ぶんだろう?

fumori

いいなと思ったら応援しよう!