叶うまで、叶っていない今に耐え続けることが、願い。
思い通りの人生を生きたい。
そう望んでいるのは、自我だ。
思い通りであることが、
自我にとって良い「快」だから。
とは言え、
思い通りであることを望んでも、
思い通りにはならないのが人生。
そんな思い通りには、二種類ある。
今にはないものを未来で手に入れること。
今まで通り、安泰に過ごすこと。
「欲」と「快」
「欲」を満たすためには、
チャレンジする必要がある。
成功すれば、満足度は高いけれど、
失敗するリスクもある。
失敗の不快さは、成功の満足度に匹敵する。
「快」を逃したくない自我は、
現状維持を推奨し続ける。
しつこくリコメンドされ、
納得できる言い訳が仕上がったら、諦める。
諦めという逃げを繰り返し、気づけば
無常な世の中に取り残されていた。
一旦、遅れてしまうと、
時代に追いつくのは、とても大変。
やらなければならないことなら、
尚更、精神的な苦痛も増す。
なので、
「不快」を乗り越えるほどの「欲」を持てばいい。
などと思ったのだけれど、
「欲」を持つこともまた、苦痛でした。
願えば叶う。
なんて、都合のいい話、あるはずない!
と思っていたけれど、
叶わないことは、認識できないとしたら…
願いとして生み出されたそれは、
いつかの未来に叶うということ。
なので、願えば叶うし、
叶うから、願いが生み出される
と言えなくもないのかもしれない。
そんな淡い期待を込めて
たくさん願ってきたけれど、
どうにも日常がしんどいのですよ。
仮説でしかないので、努力はしてません。
無駄になったら嫌なので、願うだけです。
なのに、なんか疲れ溜まってゆくのです。
歳のせいと諦めていましたが、たぶん、別物。
やっと気づきくことができました。
叶えたい未来を願うことは、
叶っていない現実を、生きること。
叶うまで、叶っていない現状に
耐え続ける今を生きること、だったから。
叶わない今に耐えるリスクを取ることが、
願うだけで叶うという魔法の対価だったわけです。
なので、願うほど、
耐えなければならない重荷が増えて、
日常が大変になっていたわけです。
そりゃ、「快」を好む自我からしたら、
耐えられない苦行でしょうよ。
なにやってんの、あんた。
楽に生きようとして、
ほしくもないものまで願って、
いつ叶うかもわからないのに
重荷ばかりを引き受けて…
あり得ないほどのおバカさんね。
そんなあんたの自我やってるあたしの身にもなってよ
ほんと、あり得ないわ。
毒舌を中和するオネェ口調の自我が
そう言っておりまする。
簡単に「欲」が得られると思って同意したのに、
無意識にどんどん負担が溜まるばかりで、
「不快」極まりない今しか生きられなくなっていた。
自我のおっしゃる通りですわ。まいるわ。
なので、
快適に引き寄せをしたいなら、
要らないものは願わない。
心が綺麗な人は、
そんなことせんでも大丈夫なんだろうけれど、
「欲」と「快」の区別も曖昧な私には、
自分の願いがマーケティングによる洗脳だったりするもので。
現実が理不尽に思えたり、
自分を責めたり、他人に腹を立てたり、
内外のジレンマがあるうちは、
引き寄せしない方が
日常を快適に過ごせそう。
矛盾を無理なく受け入れられたら、
試してみたいけれど。ぜひ。
「快」を前提に、「欲」を満たしたい。
などという欲深さ故に、
日常が苦悩に塗れているんだろうけれど。
それでも、
変化する時代とともに運ばれて行きたいものです。
fumori
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