自分を嫌いになるくらいなら、人に嫌われてもいい。
そう思えたら、どんなに幸せなことだろう。
人に嫌われることが、
なんでこんなにも怖いのだろう。
どうして誰かといると、居心地が悪いのだろう。
ランチの時間が恐怖でしかないのは、なぜ?
もしかしたら、嫌われたくないというより、
嫌ってはいけないと思ってるのでは?
そういうことなのかもしれない。
私は、元来、こだわりが強い。
好き嫌いは明確だったし、
自分以外の感性を否定して生きてきた。
そりゃ、嫌われるよね。
なので、大人になろうとして、
相手の中にある好きな部分と嫌いなところを、分けて考えるようにした。
それから、
嫌いという不快な感情を感じなければ、人生の全てが楽しくなるのではないか、なんて考えて、地獄を見た。
失敗だらけの人生における最大の失策だった。
感情を選ぶことなんてできないのに。
嫌いを消したら、
好きという感情もなくなるのに。
感情が相対するものだと気づいていたのに、
そんな暴挙に出たのはなぜか?
嫌われたくなかったんだよね。
寂しかったのかな。
仲良くなれたかな?
と、思って心を開くと、距離を置かれる。
なんか、悪いこと言っちゃったかな?
私の何がダメだったのかな?
そんなことが続いて、折れることにした。
自分なら折れても大丈夫
なんて思い上がりとともに。
人から受け入れられないのも辛かったけれど、自分を譲ってばかりの人生は、いいも悪いもなかった。なんか、どうでもいい人生になった。
本音を言えば、納得できないことばかりだけれど、言ったところで世の中は変わらないし、嫌われるだけなので、感情を麻痺させて、ヘラヘラ笑って。
そんな苦行の末に、嫌われるのだから、報われないにも程がある。
人は、弱者を嫌悪する。
優しくなんてない。
いや、多分、最初は、優しい。
が、優しくされても、気づけない。
満足できないから。
好きになって欲しくて媚びへつらわれても、まぁ、好きにはなれないだろう。
しかも、下手に優しくすると、承認欲求を満たしてもらおうと懐かれる。
だから、嫌われる。
そんな役割を演じてきた。
あーーー疲れた。
いつも笑顔でいたって、
いいことなんてなかったじゃん。
あんなもの、表情筋の無駄遣い。
悪口が嫌いなんて、嘘だ。
本当は、言いたくて、言いたくて、堪らなかったのでは?
理由もないままに、感覚的に好き嫌いを選びたかったんじゃないの?
なぜなら、それが、感情の役割だから。
休んでていいって言われても、
体も感覚も休まず働いてるわけよ。
心臓も脳も血液も臓器も骨も筋肉も
皮膚でさえ仕事してるのに、
自分だけサボってたら、
そりゃ自己嫌悪に陥るよ。
機能的には正常なんだから、
仕事させろよって言ってただけなのにね。
異常だったのは、思考の方。
そういうことじゃないでしょ?
あんたの自作自演に付き合って、悲劇に酔うのもそれはそれで楽しかったけれど、死にたくなるほどのめり込めないわ。
あんたと心中なんて、まっぴらなの。
そろそろ苦しい人生には飽きたんですけど?
無駄な努力はやめてもらえないかしら?
おっしゃる通り。
私が間違ってました。
礼儀作法を身につけるだけでよかった。
ジャッジをなくすことは、私を楽にしてくれたけれど、現実に問題を引き起こしていたのは、思ったことを言わずにはいられない性分。
思いつくまま口にしてしまう癖の方。
好き嫌いは、きっと口に出さなくても伝わってしまうのだけれど、それは、伝わった方が互いのためになるから。
適切な距離を保って、争いにならないためのナチュラルなギフトみたいなもの。
死に直面するリスクが少ない現代において、感情は、人生を退屈させないためのスパイスみたいなものだと思えばいい。
その程度のオプション。
命に付随するオマケ。
人は感情の生き物なので、なくなると生きていることが無意味になってしまうけれど、私たちの本質ではない。
嫌われることを恐れなくてもよかった。
マナーが悪いから、嫌われていただけ。
人格を否定されたと感じてしまったのは、私自身が自分に対して嫌悪感や罪悪感を抱いていたせいだったのかも。
人は、他者を嫌う。
そのくせ、嫌いな人にも優しくあろうとする。
口では文句を言いながらも、行為として親切にする。矛盾しているけれど、そのどちらもが、人の本質なのかもしれない。
好き嫌いがあることも、誰かの役に立ち喜びを感じることも、役に立てない自分を不甲斐なく感じることも。
なら、
自分にとって役に立つから、好意が生まれ、
役に立たないから、嫌悪するのかな?
結局のところ、本質とは、損得なのかな?
仲間意識も?
なら、笑顔は無駄ではなかったかもしれない。
私を好きでも嫌いでも、優しくあろうとしてくれた人々へのマナーは欠かさずにいられたのなら。
人を嫌う自由があり、
嫌いな人にも優しい。
そんな自由で優しい世界ならいい。
fumori