現実逃避が止まらない。

辛い現実から逃れるために、
言い訳の立つ何かに逃げ込むのは、
未熟な心を守るため。

それ自体が悪いこととは思えないけれど、
私のネガティブな感情は、現実を否認する
ことから生み出されているらしい。

なら、現実が辛いからと逃避している間は、
ネガティブな状態なままということ。

暗い気持ちのまま過ごすだけでも苦痛なのに、
逃れようとするほど、気持ちは塞いでゆく。
心はこうして摩耗してゆくのかもしれない。

現実を否定したら、ネガティブはエンドレス。
なら、否定しなければいい。

赦せなくても、認めなくても、
受け入れなくてもいい。
肯定しなくたっていい。

現実と自分は同じ。
あるがままの現実を否認することは、
自分自身を、人間の本質を否定すること。

人でありながら、人であることを否定する。

気分の重暗さは、人としての存在を、
命を否定するからかもしれない。


そこまで構築していながら、
未だに気が重いのは、なぜだろう。
どうして、現実と向き合えないのだろう。

向き合えないだけの何かがあるから。
見たくないもの。知りたくないもの。
奥底に隠し続けておきたいもの。

それが、死だと思っていた。
ほぼ、合っていたし、死ぬのは今も怖い。

ただ、死について自分なりの考えが
纏まったことで、執着は薄らいだ。

それなのに、この二ヶ月、
プライベートの殆どを逃避に費やした。
特別嫌なことがあった訳ではない。

思考を停止させるためだった。
考える時間を与えないように。
考えなくていいように。

そこまでして、
人生を犠牲にしてまで、
隠しておきたい感情。
死よりも恐ろしいもの。

今日、やっと、それに触れた。

私は、疎まれていた。

具体的な出来事は覚えていない。
ただ、疎まれるという感覚に気づいた。
その陰湿な感情は、心の奥底にあった。ずっと。

嫌いとは、違う。
嫌いは、相手を認識している。
同じ人間として、相対している。

疎まれるという感情は、
同じ土俵にはいない。

うまく言葉に出来ないけれど、
認識したくない存在、かな。

視界から、自分の世界から、
消え去ってほしい。
そのくらい破壊的な感情。

他人なら、深入りしなければいい。
合わないとか、苦手や、嫌いや、
憎らしい態度で済む。

疎むは、無視できない関係性から
生み出されるダークな感情。

嫌でも関わらなくてはならないのに、
どうしても認められない存在。
そんな相手に抱く感情。


疎まれている自覚はなかった。

嫌いとの違いがわかっていなかった。
そこかしこに、嫌われている実感みたいな
ものはあったけれど、疎んでいる相手に、
直接告げることはない。

極力、関わり合いたくない。
人を疎むとは、そういうことだと思う。

例えば、それが一般的には、
「愛すべき対象」だとしたら
疎ましい感情そのものを押し隠すだろう。

私が自覚したくなかったのも、それかもしれない。

愛されるべき相手なら、疎まれていた。
若しくは、愛するべき相手を疎んでいた。

赦せなかったことは、疎まれていたこと。
赦されないことは、疎んでいたこと。

疎むという感情は、ただ昏い。
妬みや僻みが、カラフルでポップに感じるくらいに。

複雑で、子供の私には処理しきれない感情だった。
嫌な感情を山のように経験しないと、
直視できない感情だったのかな。

気付きたくないほど、傷ついた?
腹が立って、悲しかったのかな。

若しくは、
そんな目に誰かを合わせてしまったのかな。

疎まれていたこと。疎んでいたこと。

認められなかったのは、そんな自分。
愛されるべき自分が、相手が、疎まれていた。

それも、現実。
見方を変えれば、
都合のいい言い訳なんて幾らでも。

けれど、必要なのは理由ではなく、
否定しないこと。

あったのなら、あった。
それで済ませること。

言葉にしたら、自我にも支配されてしまう。
あったことを、否定しない。

あるがままを否定しなければ、
あるがままの自分でいられる。
それは、今ある命。

私たちは、ただの命。
何者でもなく、ただの命に過ぎない。

 fumori 

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