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どっちに転んでも、いい世界。

私を幸せにする。

そう決めたけれど、たぶん、
私は幸せにはなれない。

幸せを感じられる瞬間はあるけれど、
幸せと同じだけ不幸せを味わう世界だから。

私が考える幸せは、
自我にとっての幸せなので、
幸せになると同時に、それを失うかもしれない
という不幸せを抱え込むことになる。

世は無常。
この世界に変わらないものは、なにもない。

どれだけ幸せでも、いつかは必ず終わる。

死ぬまで守り切ったとしても、
共にあの世には持って行けない。

それが、この世界の理。

そんなことわかってる。
でも、幸せになりたい。

ループするほどに、
生きる価値が薄れてゆく気がした。

何かを成し遂げても、何かを得ても、
無意味な気がしてきた。

私を幸せにするということは、
そういうことだった。

今の世界観を生きている限り。


私を幸せにする。

その願いを叶えるには、
同じだけの不幸せを引き受けること。

問題は、そんな自我の世界観。

自我は、唯一を許さない。

私はこの世界にただ一人のオリジナルだけれど、
オリジナルな私がいることで、
私が見ている唯一の世界が成立する。

一つを認識すれば、必ず対極を生み出してしまう。
唯一の自分には、唯一の世界を。
幸せになったら、不幸せも味わう。

全ては、つがい。
陰陽は交互に巡る。

不幸せになるなら、幸せを求めて何になる?
安全地帯から、他人のドラマを眺めているだけでいいや。

なんて割り切れたら、楽なのにね。


私を幸せにすることが、
私を不幸にすることでもあるなら、
自我の幸せはもういいや。

そもそも、幸不幸は、
比較から生み出される自我の主観。

勝手に、幸せを定義して、
当てはまればハッピーになり、
そうじゃなきゃ不幸せを感じる。

幸せすらパターン化させてしまう自我の世界観よ。

幸も不幸も好きにさせておけばいい。
単なる自我の主観に過ぎないのだから。

私が感情に付き合う理由はない。

自我がどれだけ不幸でも、
それを感じていられる私が存在しなかったら、
その不幸すら感じることは出来ないのだから。

幸せは、心を満たす歓び。
不幸せは、不快だけれど、
不幸せで心が満たされている状態。

結局、どちらも満たされているのだ。

埋めなければならない心なんてない。
心はいつだって何かで満たされている。

それがネガティブな想いであっても、
ちゃんと満ちている。

幸せが好きで、不幸せが嫌いなのは、自我の主観。
幸せで満たしたいから、欠けているように見えるだけ。

満たしたいという欲望が、
満たされない心を生み出している。

心は枯れない。いつだって満たされている。
自我の望んだ想いではないだけ。

不幸せで満たされた心に、
私という自我は耐えられない。
それだけのことだった。

私は、幸せに値する。
それが、自我の拠り所だから。

でも、幸せに値しようが、しまいが、
私はここに存在していていいのです。

自我が許せない私も、
自我が認められない私も、
自我が愛せない私も、
存在していていいのです。

不幸せな私も、存在していいのです。

自我は幸せな私にしか価値を見出せないけれど、
不幸せな私にも、同量の存在価値はあるのです。

幸せだから、価値があるのではなく、
存在しているから、価値を見出しているのです。、

価値があるのは、今、存在していることなので、
不幸せな私にも、価値はあるのです。

今、生きている私に、価値はある。

幸せでも、不幸せでも、私の価値は変わりません。
価値を見出しているのは、私という実在です。

私が、存在しているから、
幸不幸に価値を置けるだけの話。
別に、価値を置かなくたっていいのです。

幸せがどうかは、価値とは関係ありません。
価値があるのは、今、生きている私。

そんなどっちに転んでもいい世界を生きてゆきたい。

2025年  fumori


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