愛されないことに悩んでいたから、愛せない人を愛する方法を見つけようとしていたみたい。
誰を愛するか、何を愛するかは、
その時の心が決めるものであって、
意図的に選べるものではない。
なら、愛すべきものを愛せないからといって
悩む必要はないはずなんだよね。
あ。支配したり、意図的に傷つけるのは、
他者の世界への侵略なので、
愛せないこととは別の話です。
伝わるように言葉を選ばなかったら、ごめんなさい。
さて、愛すべきとされる存在を愛せなくてもいいなら、
愛するかどうかを立場や役割で決めてある方がおかしいのかもしれない。
そう決めておかなければ出来ないほど愛することは難しいのかもしない。
ナチュラルに愛する事ができる人が殆どだとしても、
自分がそれに該当しないことに傷つかなくてもいいのかもしれない。
育ててもらった恩と愛とは、別でもいいのかもしれない。
「親は子供を愛するもの」「子は親を敬うもの」
なんて価値観こそ、どうかしているのかもしれない。
実際、私にとって都合の悪い人を愛する自信なんてないもの。
愛していないものを、愛そうとするのは苦しい。
愛さなくてはならないとされていればいる程に。
愛せる時もあるし、愛せない時もある。
愛されない私もいて、愛せない相手もいる。
なんでそれではダメだったんだろうね。
心が勝手に想うことを、
なんでそのままにできなくなっちゃったんだろうね。
立場や役割を果たすことと、
私の想う愛することは違ってても別にいいのにね。
今の自分がどうであれ、生きているのなら、
役目は果たしてもらった。十分に。
私が好む愛が依存だったというだけのこと。
自分を愛することより、誰かに愛される方を選んだだけ。
自分を偽っても、愛されることを願っただけ。
なんでそうなったかは、どうでもいいや。
今日からは、自分への愛を生きるので。
過去の想いに対する責任を果たして、
未来の自分に貢献する。
そうやって、愛するってことを自分に対して実践してゆく。
ネガティブな想いを愛に還元する。
やり損なっても大丈夫。逃げたっていい。
想いは巡っているので、
生きている限り逃げきれないし、
愛に還元するチャンスとして、
何度でもやって来る。
ネガティブな想いをループする事もできるし、
愛として未来に送ることもできる。
愛するかどうかは選べなくても、
巡る想いを愛に還元することはできる。たぶん。
言葉で振り分けなければ、たぶん、全ての想いは愛だから。
…という仮説を実践してみようと思う。
fumori
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