価値観が間違っていても、感情に間違いはない。
生きているうちに染み付いた
自分のものではない価値観を手放したい。
…のだが、なかなかに手強い。
他者の価値観だと気づいても、
まだ居座っている。
根性ないくせに、頑固。
そんな性格のせいにして片付けてきたけれど、
それだけではないのかもしれない。
捨てられないのは、
手放しがたい価値観だから?
だとしたら、それはなぜ?
裏切ることになるから。
なら、影響された人を信頼していたいのだろう。
せっかく手に入れたのに。
費やした労力に見合う対価が欲しい。
執着した価値は、高く見積もられる。
有益性ではなく、
その時、相手をどう思ったか?
今の私は、その過去をどう捉えているか?
もしかしたら、
そんな感情論なのかもしれない。
どうしたら価値観を書き換えられるのか?
そればかり考えてきたけれど、変わらないのは、価値観よりも、それを得たキッカケとなる感情が関わっているのかもしれない。
有用な価値観よりも、その価値観に触れ、感情が揺さぶられた度合いの方が、重要度が高くなったりするのかな?
感情のバロメーターが振り切れた瞬間。
知っている知識を体感した瞬間。
それは、私自身の進化を促す。
生きる価値そのもの。
だから、
役に立たないのに、捨てられない。
役に立たないのに、価値のある経験。
なら、感動の基準で考えれば、どんな失敗も価値ある進化のためのイベントだ。
大失敗ほど感動基準は高くなる。
経験としては貴重。
そこで得た価値観も、しかり。
例え、今は役に立たなくても…
生きるために有益な価値観はあるのだろう。
けれど、今、私が求めていることって、便利な価値観よりも、心が動かされること。
私の理屈には、感情論が欠けている。
そもそも、現実と向き合うということは、理屈と感動、両方の基準で捉えてゆくことなのかもしれない。
現実を理屈で捉えようとするから、感情の反発を喰らう。
合理的でなくても、辻褄が合わなくても、その時感じた感情は、真実だ。
不要な価値観によって、オートマチックに発生させられたとしても、生まれた感情には関係のないこと。
価値観が間違っていても、感情に間違いはない。
手放せないのは、その価値観を信じていたいという感情。過去への執着。
もうなくなってしまった郷愁またいなもの。
認められなくて、私自身が否定したもの。
そんな感情を解放できたら、
古い価値観と融合できるかな?
そもそも、私の価値観なんてものはない。
押し付けるように与えられた洗脳と、
意図的に獲得したいいとこ取りから成り、
蓄積されたそれらの辻褄を合わせたもの。
他者の価値観を寄せ集め、現実を凌いできた。
古い価値観が根深いのは、大凡、与えられたそれらで乗り切ってこれたからで、理屈から言えば、便利で生きやすい価値観なのだろう。
ただ、私の感情にはマッチしない。
理屈通りに生きようとして、感情を軽く扱ってきたから、辻褄を合わせようとすればするほど、矛盾が生まれて、歪んでしまった。
価値観に絡んだ感情が、発酵して、怨念化しているのではないかしら?
そうまでして、理屈を優先してきたのは、あの信念があるから。
楽して生きたい
私の中の最強の大罪、怠惰ちゃんが権力を牛耳っているからだ。正直、それが罪とは今以て思えないのだけれど、最高権力者の地位は譲ることにしよう。
先ずは、時々の感情を無制限にする。
それから、楽できる手段を考える。
そうこうするうちに、居座っている感情の怨念を浄化できるチャンスが訪れるかもしれない。
決断を迫る現実に、理屈と感情、双方に折り合いがつく選択をし続けること。
私の価値観があるとすれば、そういうもののような気がする。
fumori 2021.8.1
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