
生死は、自他に似ている。
私たちは、世界のハザマで暮らしている。
天と地。死と生。神と命。永遠と有限。
例えば、生と死の間に目盛りが10あるとして、今の自分はどの位置に立っているのか。
それを、他者やデータや一般論などで勝手に判断して、自分が納得できる場所に立っている。
いつ死ぬかなんて、わからないのに。
人生の終わりが来るまで、私たちは生のポジションにしか立つことはできない。
どちらかを選べるような気でいるけれど、命ある限り、私たちは地と生と命と有限しか選ぶことができない。
語り継がれることはできる。
作品や名を残す人もいる。
けれど、そこに命はない。
注ぎ込まれた何かを感じることはできる。
感動させられたりもする。
けれど、本人はもういない。
死を感じることはあっても、死んだことのあると証明出来る人はいないだろう。
なら、死とは他人のものに過ぎないのでは?
天も、神も、永遠も、人には選べない世界。
二つの世界のハザマで暮らしながら、目盛りの先に越えられない領域があるのだな。
選べるようでいて、選べない世界。
あるようでいて、ない世界。
価値観としては存在しても、到達できない場所にある世界。
命を生きる上で必要なさそうな価値観に、とらわれているのだろう。
死を恐れ、天空と永遠に憧れる。
逆に、有限だからこそ、ないものを恐れたり、憧れることができるのかもしれない。
自分は常に生きていている。
私たちの命は、圧倒的。
fumori