「私」をやめる方法があればいい。
「私」を、やめちゃおっかな?
地球に存在する命の一つ。
そんなピースフルな感覚を捉えられるようになったものの、
誰かといると、途端に自我100%に戻ってしまう。
喋り始めると、かな。
感情が乗って、主張せずにはいられなくなる。
で、それをなんとかしたい
思考サイドの自我が出張って来る。
つまり、どちらの自我も、私、なんだよね。
思考も感情も、肉体由来のシステム。
優位に立つ方が、自我を支配する。
干渉させないよう配慮することはできても、
対立構造そのものをなくすことはできない。
「私」という固定概念がある限り。
出来るかどうかは別として、自我を手放せば、
思考と感情の葛藤はなくなると思うのだけれど…
気が進まないんだよね。
自我がなくなったら、誰かの自我とか、
大義とかに支配されやすくならないかな?
自分ではないものの為に生きること。
それが、人の道なのかもしれないけれど、
そこにこそ喜びがあるとしても、
現状を最善として、無条件に受け入れてたら、
騙されちゃう気がするのは、
私の心が穢れているせいでしょうか?
そこに至るまでの、
自己信頼が足りていないのよね。
なので、私をやめることは、一旦保留。
その代わり、
主語を、私ではなく、この命、としてみる。
当然、相手も、その命だ。
私の命でも、あなたの命でもない。
こっちにある命と、そっちにある命。
視界に映る個人という認識を透過して、
肉体に宿る同じ命として承認する。
相手の自我が、好きでも嫌いでも、
敵であれ、味方であれ、命の危険がないなら、
先ずは、対等な命として承認してみる。
同じ地球の命の一つ。
命なら、誰であっても対等でいられる。
さて。
なぜ、命でなければならないのだろう?
なぜ、人として対等とは思えないのだろう?
自我は、対等ではいられないのかも。
対等でいたいという願いは、
対等とは思えないという現状が生み出したもの。
自我は、比較することで、相手を認識する。
尺度は、自分。
自分より、優れているか、劣っているか。
大きいか、小さいか。
強いか、弱いか。
なので、どこで、誰と会っても、
自分という認識を保たなければならない。
いつでも「私」でいることは、
対等なようでいて、逆だ。
「私」が一定だと、
相手が小さければ、「私」は大きくなる。
相手が大きければ、「私」は小さくなる。
相手の大きさによって、「私」のサイズが決まっている。
いつでも一定の「私」を基準にするから、
相手を大きくしたら、自分を小さくするしかなくなる。
敵わないと思えば、萎縮し、
優れている思えば、自信満々になる。
相手をどう認識し、
その基準となる自分をどう認識しているかで、
スタンスが変わってしまう。
相手によって、自分が決まる。
それが、一定の「私」。
なら、一定じゃなくなればいい。
「私」をやめなくても、一定に保たなくてもいいなら、
相手の大きさによって「私」が変わる必要もない。
「私」のサイズを、相手に合わせてみればいい。
大きいと思って、萎縮するのではなく、
逆に、自分を大きくすればいい。
自我も、「私」も、命も、実態はない。
認識や意識や感覚なら、自由自在だ。
大きな人には、張り合うもよし。負けるもよし。
本来の自分を出せるチャンスは、ここ。
雑魚なくせに、やけにパワフルな私と
対等にやりあえるのは、ここの人々。
ただ、小さい相手に、
フルパワー出しちゃうような輩だからな。
パワーが溢れちゃってる人か、
無自覚にマウント取りたい人かは、
見極めよう。
逆に、自我が小さい人は、
精神性が高くて、優しいのかも。
我より全体意識を大切にできるから、
子供っぽい我の強さも、受け入れようする。
長くは続かないけれど。
受け入れてもらえると、嬉しくて、
素の自分を出してしまいがちだけれど、
一番、出していけないのは、この人々。
なので、我の小さな優しい人には、
「私」を最小限にして、接する。
優しいから、マウントだって
笑顔で取らせてくれる。
気分良くさせてくれる相手だ。
自我にとっては、苦行の相手。
優しい人としていたいけど、
優しい人は、優しい人といる方が快適。
自我は、優しさに憧れているけれど、
この命はさ、野生的というか、
とにかくパワフルなんだよね。
優しく生きれば、持て余す。
不向きなんだよね。残念ながら。
優しさがないわけじゃないから、大丈夫。
ま、このパワフルさは、
生まれ持った厄災だけれど、
ギフトには違いない。
要は、使い方次第ってこと。
そう前向きに捉えて、がんばろうね。
この命が持つパワーを
相手の大きさに合わせることから、始めてみよう。
fumori