
臆病な私は、愛を知らない。
人が怖いのは、相手を通じて、
自分を見ているからかもしれない。
愛とは、見つめること。
だとすれば、
自我の介在しない愛の眼差しには、
私自身の実在しか写らない。
つまり、人が怖いということは、
予測とは違う相手の反応が怖いと同時に、
その相手に反応に対する
私自身の予測不能な反応を
恐れているのかも。
私の知らない私が出てくる可能性が怖い
ということなのかもしれない。
特に、相手を拒絶する私。
納得のいかない私。
自論に固執している私。
怖いのは、自我。
自我は、私自身が怖いのだ。
自我は愛を知らない。
恐れが緩和されることを知らない。
だから、自我は恐れている。
だから、現実は恐ろしいまま存在する。
愛がわからないから、
それを恐れ、拒絶している。
わからないものと混ざり合うことが、怖い。
私の世界が壊されることが、怖い。
臆病な私は、愛を知らない。
愛がわからないから、怖い。
愛は、恐怖さえ肯定も否定もせず、見つめる。
見つめられることで、存在していていいことを知る。
必死に否定したり、機嫌をとったりしなくていい。
恐れを恐れのまま見つめていれば、
愛に溶解してゆく。
愛は、見つめること。
ただ観察するもの。たぶん。
自分を恐れる必要がなくなれば、
誰かを恐れることもなくなるのだろう。
反応する自我がなければ、
相手は勝手に私を通して自分を見るだけだ。
どうしたら、
ただ世界を観察し続けられるだろう。
どうしたら、
自我を成仏させられるだろう。
どうしたら、
愛の眼差しを向けられるだろうか。
相手に。
相手を通して、自分に。
fumori