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私は私をなにも知らない。

今ある全てを、赦してしまおう。
赦せないものも、赦してしまおう。

ずっと赦せなかったのは、
受け入れなければならないと思っていたから。

赦すことは、受け入れるのではなく、
受け止めることなのだろう。

それがあることを認識する。
あるものを、否定しないこと。

良い悪いとしか、正しいかそうじゃないかとか、
好きか嫌いかとか、個人的な見解は、後。

先ず、自分の現実に起きている物事を、赦す。

現実という予測不能なボールを、
受け止めてくれるキャッチャーを
自分と現実との間に置く感じ。

心に直撃しないように。
心を乱されないように。

受け止めるだけなので、
受け取らずに返すこともできる。
それが、建前。

受け止めきれずに、
心がざわつくなら、それも赦す。

どれだけ口汚くても、八つ当たりでも、
客観性に欠けていようとも、言いたい放題を赦す。
そうやって、本音をジャッジしたがる自分も赦す。

心に届いてしまったら、
心の中で反応するがままにさせておく。

反応を乗せた言葉を返さない。

相手を批判してしまうのは、
自分を赦せていないから。

自分を赦せないから、
人の話を聞いていられない。
心が耐えられないから、解決したくなる。

けれど、会話を求めるのは、
ざわつく心を整えて欲しいから。たぶん。


あるがままを赦す。

なんて、何年も前から言っているのに、
できていると思っていたのに、全然だった。

どうしても、目の前の現実に右往左往してしまう。
無自覚にジャッジして、勝手に心が反応してしまう。

身体的なプログラムには、意思では逆らえなくて、
赦したくないものを赦そうとして、迷走していた。

今ある全てを赦すということは、
今ある自分を赦すこと。

今ある現実を認識しているのは自分なので、
どちらかを赦せば、どちらも赦されることになる。

私の場合は、自分が先だった。

今ある自分を赦すということは、
これまでの過去の全てを赦すということ。

今日まで存在してきたことには価値があった。
そうとは思えない現実に
そう思えなくもない見方を探し出すこと。

嬉しくても、腹立たしくても、
どんな自分にも価値がある。

失敗しても、価値があるし、
成功しても、同等の価値しかない。

私の価値は、今にある。
現実の出来事や心のあり方や、
社会からの評価とは関係ない。

自分の価値や生きている意味みたいなものは、
人それぞれだと思う。

私の場合は、
想うこと。感じること。行うこと。
それができる体と心がある今。

存在していること。

そんな当たり前な価値の凄まじさを
体感できたら、赦すことができた。

赦せなかったのは、矛盾する自己。

恵まれたこの体に相応しくない脆弱な私。
強い身体と不釣り合いの弱くて邪な心。

私は、私の丈夫な体に対して、劣等感を抱いていた。

こんな私でなければ、
もっと幸せに生きられたのに。
こんな今でごめんなさい。
こんな人生にしてしまって、ごめんなさい。

それは、愛され、期待されたにも関わらず、
応えられないことへの罪悪感とよく似ている。

赦すことは、理想を諦めることだった。
自我の限界を認めるということだった。

理想を諦めるためには、
理想通りに生きることよりも
心惹かれる価値観を見つけること。

自我が憧れるものに気づくことだった。

自我の苦しみを生み出している原因が、
自分の中の素晴らしさだったと知ることだった。

自我が憧れる丈夫な体はもうないけれど、
そうなって、やっと心と釣り合った。

老いた体と脆弱な心。
そりゃ、もう、相性がいいったらない。

自我としては、
体に見合った強い心を養いたかったんだろうな。
本当に、そう生きられたらよかったのに。

一先ず、生きている間に、
生きている価値を知れて、よかった。

心身が不釣り合いだったから、
大きな葛藤に巻き込まれて、
ドラマチックに生きてきた。

葛藤は生命力でもあるので、
なくなりはしないだろうけれど、
できる限り穏やかな今になるといいな。

今ある全てを赦し続けることで、
どう変わってゆくのだろう?

どこまで赦せて、なにが赦せないのだろう。

本当に。
私は私をなにも知らない。

fumori

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