思考は言葉。本能は欲求。なら、心は…?

言葉は思考。
自我の解釈。
心とは別物。

感情に気づいたり、
解決策を考えたり、
本音を誤魔化したり、
言いくるめたり。

自分を都合よく操るためのツール
だったりもする。

感じたことさえ、
言葉にしないと認識できない。

なら、全ては思考…
という訳でもなさそう。

寒かったり、お腹が空いたり、
本能の欲求を言語化するケース。

面白そうだかららやってみたいとか、
楽しそうだから行ってみたいとか、
怖いから逃げたいとか、
活動を呼び覚ます心理的欲求。
死にたいという声も、こっち。

死にたくはないし、死のうとも思わない。
本能としての生存欲求はあるので、
語っているのは、リアルな死ではなく、
自我の消滅的な死についてだと思う。

死が比喩だとしたら、
心はなにを求めているのだろう?

ずっと気づかないふりをしてきた
寂しさかもしれない。
怒りや悲しみがしれない。

記憶はないけれど、
忘れられた感情が積もって、
拗れて、吹き出してくる。す

それは、今も同じこと。

現実は、無常。
同じように見えても変わっている。
常に現実と対話し続けているなら、
瞬間で感情は変わっているはず。

なのに、余程のことがないと、
今、なにを感じているか、わからない。

感じてはいるはずなのに、
言語化しようとはしていない。

無意識でいると、
感情は無視されるみたい。

なら、今、感じているはずの感情は、
こじれて爆発するまで、
沈殿し続けているのかもしれない。

嬉しいとか、楽しい感情は、
その瞬間に感じているのに、
ネガティブな感情は、
無意識に無視されてゆく。

なら、楽しい感情しか
記憶には残らないはずなのに、
実際はほぼネガティブだったりする。

日常に、それほど楽しさはないし、
なにより、思考はおしゃべりだ。

言語化されるのは、
感情ではなく、ほぼ欲求。

なにかをしたいと言ってくる。

ご飯を食べたいのも、
キレイでいたいのも、
綺麗だと思われたいのも、
死にたいのも、全部欲求。

ということは、今にはないもの。
あるものを欲しがろうとはしないから。

本能が望み、思考が言語化し、
ジャッジしている状態。
それが、私の無意識。

どうやら繊細な感情を感じる
システムではなさそうだ。

本能と思考は、欲求と判断。
本能のままに生きることは出来ないから、
思考は本能を諫める側にいることが多い。

楽しい感情は、抑制されないから、
発生した瞬間に感じるけれど、
望ましくない感情は、なかったことにされて、
心に溜まってゆく。

なら心は、
本能と思考の間にあるのかもしれない。

思考のジャッジを不服に思うのも、心。
ネガティブな気分は、
ネガティブな現実のせいではなく、
本能と思考のギャップを心が負担させられて
辛いのかもしれない。

辛いというのは、欲求ではない。感情。

辛いと感じているのは、心。
なのに、それを心の声とは思わずに、
我儘だと、甘えだと判断してきた。

辛いのは現実ではなく、
心だったのかもしれない。

困難な現実が事実だとしても、
気づいて欲しかったのは、
心の声だったのかもしれない。

なら、死にたいという欲求も
退屈な日常や、希望のない未来が
原因ではないのかもしれな。

むしろ、拗れた感情が、
死にたいという欲求を生み出した
のかもしれない。

死にたいと願う時、
心はなにを感じているのだろう?

寂しさは、いつだっているとして…

満たされない欲求への不満?
偉そうにジャッジする思考?
言いなりにならない本能のせい?

自分を支配できない苛立ち?
コントロールできると
思い上がっている自我に対して?

欲求は抑えられても、
感じたことを書き換えようとするから。

感情の改竄は、悪意。
良心に反すること。
感じてはいけない感情なんてない。
命は、今には全てがあるから。

無意識になかったことにしている
ネガティブな感情。
ネガティブなのは、そのせいかもしれない。

思考に都合よく言語化されているから。
本心だと思っていることが、本音ではないから。

死にたいのは、心。
死にそうな心の声。

死にたいという声は、
心の声が聞こえ始めたサイン
だったのかもしれない。

どんな感情を抱いたとしても、
味方でいれますように。

 fumori 

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