私を含む存在する全ての命を肯定するための屁理屈について。
私の現実は、私が認識している世界。
認識は、過去から組み上げられたパターン。
仮想なのだから、辻褄なんて合うわけがないのに、
仮定を含んでいることに無自覚だったりする。
挙句、整合性のなさに戸惑い、
憤って、悲しんで、怯えている。
現実が仮想だとは思っていないけれど、
私の見ている現実は、リアルではない。
それがわかっても尚、自我としての私は、
リアルとして受け取り、臨場感に囚われている。
その理由が過去のなんであれ、
つもりに積もった感情が流れを堰き止める。
滞り、淀み、溢れて、いずれは決壊し、
制御不能の情念になる。
感情は、表と裏とを交流する勢いであって、
ただ巡るものなのに、人の理に頼って、
善悪に分け、苦しみを生み出している。
思うような流れに調整しようとして、
整備しては頓挫して、自滅する。
人の世を生きる術である知識が、
ただの倫理観という実態のない概念が、
私の自我を隔離し、支配している。
それが、私の苦しみ。
どうしたら、自我を解放できるのだろう。
自分と異なる認識の人々と共生するためには、
人の理みたいなものは必要だと思う。
けれど、
単なる処世術の一つに過ぎない情報に
支配されていていいのだろうか?
自分で自分を縛り、苦しめたいの?
自由でありたい。
自由でいさせてあげたい。
それが、私の望み。
長く願ってきたけれど、
今現在、それが叶っていないのは、
たぶん、願望の対極にあるデメリットを
受容できないから。
自由とは、知識以外の世界を受け入れること。
可能性には、失敗する未来も含まれている。
未知を恐れるのは、成功パターンが通用しなくなるから。
なるべくなら成功し続けたいから、
失敗しにくい未来を選んでいる。
その自我の選択が自分自身を制限し、
無自覚のまま支配されることになり、
苦しみを生み出している。
辛い現実を自我のせいにしてきたけれど、
失敗を恐れる私自身の願いが
生み出していたのかもしれない。
すまん。自我。
命の流れを堰き止めるのは、自分に対する否定。
なぜ自分を嫌っていたのか、わからないけれど、
なんとかしなければと、自力に頼って拗らせた。
我は強かったけれど、個人である限り
外圧を跳ね除けられるほどのパワーはない。
自我の外側にある現実の勢いみたいなものは、
巡っているのは命なのだと思う。
地球に存在する全ての命と連動する流れなら、
その一部である私の自我が敵うはずがない。
私自身もその流れに沿って、巡っている。
なら、流されるか、流れに乗るか。
選べるのは捉え方の問題くらいなもので、
個人の力では抗えない流れに巻き込まれているのだから、
その中にいればいいだけ。それ以外、やりようもない。
そんな諦めが、求めていた居場所になった。
今、ここに存在していてもいいことになった。
自分を含む全ての命を肯定するための屁理屈。
自分の存在を許せなかったのは、
許せない現実に憤っていたからかもしれない。
命の巡りさえ、支配できると思うくらいには
我が強かった自覚はある。
そのくらい自分も世界も肯定して
生きていられた時期があったということ。
私の苦しみは、一時的に与えられた
過剰な幸せのツケだったのかもしれない。
半世紀を棒に振るほど
価値ある幸せだったのかはわからないけれど、
与えられたものしか与えられないのだとしたら、
生きている苦しみを撒き散らすだけでなく、
生きている歓びに届く可能性はあるのかもしれない。
なくはない、くらいかな。
自我の内側にある無限の命に届きますように。
fumori
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