その場に相応しい対応のために、嘘をつくことについて。

2025年は、自分の中に嘘のない世界へ。

そのために、どうしたらいいか?
ばかり考えていたのだけれど、
そもそも、なぜ、嘘をつくのか?

私の場合は、怖いから。
本当の自分を知られることが。

目先の欲に流される。
得のある方を選びたがる。

そんな自分を恥じている。
罪悪感や自己嫌悪が強い。

そういう心底嫌いな自分と、
どう生きていったらいいかわからない。

付き合い方が、下手すぎるのだ。

本音はわがままなろくでなしだし、
倫理やら、社会性やら、処世術やら、
どれが正解かわからない情報ばかり。
不安だし、ブレブレだ。

心が弱いから、正解の自分を探している。

理想は高くなり続け、
リアルな自分とのギャップに苦しんで、
ますます、不安は募る。

いつになったら、ブレない理想の私になれるのやら…

って、なれませんよね。
今更、気づいてなんですが、
そのやり口では、叶いません。

心が弱いのは、自分のことが嫌いだから。

なら、心を強くするには、
性格の悪い自分とうまく付き合うことです。


善悪を振り分けないではいられないと思う。
ずっとよい自分でいられるとも思わない。

なら、よい自分も、悪い自分も、
ジャッジしなければいい。

よい自分は、大切にする。
悪い自分は、正す。

そういう差別をしない。
どっちの本音も、対等。

本音を善悪で裁かない。
本音と善悪は関係ない。

嘘をつくのはよくないとしても、
誰彼構わず本音を伝えていたら、どうなる?

大切なのは、善悪よりも、
その場に相応しいかどうか。

ま、それが難しいのですがね。空気読めないし。
だからこそ、正解が欲しかった。

なのに、ありたい自分という理想が、
本音を裁いて、理想と違う自分を否定して、
自分を嫌いになり、心が弱り、人が怖くなり、
感情をオフにして耐えるしかなくなる。

思考で会話すれば、損得や正論が優位になる。

なので、嘘をつく。


人に好かれたいのも、理想の自分も、
そうなれたら、安心できるから。

相手に好かれていると感じられる時は、
確かに安心するけれど、
理想の自分になったら安心する?

他者から好かれる自分を理想としてるのだから、
安心はできるけど、実現はしないだろうね。
出会う人全てに好かれなければならないのだから。


嘘のない自分でいたい。
嘘をつくと、気持ち悪いから。

けれど、嘘をついてはいけないという道徳は、
嘘をついた私を裁くためのものではないよね?


安心していたいなら、
社会のルールで自分を裁かなければいい。

性格の悪い自分も、よい自分も、
優劣をつけない。差別しない。
どんな自分も対等に。

あとの不安は可能性なので、なくならない。

自分と世界の未来を信じて、
よくなる方に目を向けるとか?
未来のために、やれることをしてみる、とか?

少なくとも、
不安を煽るだけの無謀な理想のために
努力なんかしないこと。

正解に安心していたいけれど、
相手や状況によって、
相応しい対応なんて変わってしまう。

社交に正解なんかないのだ。

だから、
本音を裁かず、優劣をつけず、
その場に相応しい言動を選ぶ。

相応しい言動が、
本音とは違っていたとしても、
嘘をついた自分を裁かない。

その場に相応しい言動のための嘘を赦す。
それが、自分の中に嘘のない世界。

なりたい自分より、嘘のない自分でいる。
考えたことを、検証してゆく。

2025年は、実のある一年にする。

fumori


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