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見たくない現実の中に、私自身の欺瞞が現れているのかもしれない。

私の願いは、生まれた時から
国家レベルで保障されていたらしい。

第19条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
個人が持つ世界観、人生観、主義、主張などの
内面的な精神活動に於いては、
個人の内心に留まる限りは、絶対に保障される。

日本国憲法、最高じゃないてますか。

今ならよくわかる。
私は、憲法違反をしていた。

相手の主義主張を否定して、
自分の世界観を押し付けようとしてきた。
私自身の不足感を満たすために。

内心に留まらず、他者の世界観に侵入し、
影響力を与えたかった。
私という人間を、認めてほしかった。
承認欲求を満たしてもらいたかった。

それが叶わないと悟ったら、あっさり服従した。
相手の期待を満たすことで、ポジションを得た。

他者から称賛されるか、
他者の傘下に入ることで、
居場所を得ていた。

私の世界は、霧のようなものだった。

蜃気楼のように、周囲の状況に合わせて
姿を変えてきた。

ポジティブに捉えれば、
柔軟性が高いとも言えるけれど、
他人の期待に応えることは、
一瞬の喜び以外は苦痛しかなかった。

自分を生きられないということは、
そういうこと。

誰も頼んでいないのに、
なんで自分を偽ったりしてきたのだろう?

なんで人間らしいゲスな自分を
赦せなくなったんだろう?

ダークサイドの自分を
消去しようとしてきたんだろう?

どれも内心の世界の話だ。
なら、どんな自分だっていいと、
憲法で保障されているのにね。

そのくらい生きる上で大切な自由を
保障されて生まれてきたのに、
なんで手放してしまったのだろう。


心の中にある限りは、
どんな自分でもいい。

なのに、むしろ苦しいのは、
社会的な価値観と思っていたけれど、
良心のせいかもしれない。

いつの間にか植え付けられて、
勝手に成長して、私を縛る荊棘になった。

それは、私の自由を奪う代わりに、
私の命を守ってきた。確実に。

なら、良心があるのは
愛を与えられた証なのかもしれない。


良心が育まれるほどに、
愛されて育ったのだと思う。
やっとそう思えるようになれた。

して欲しかったことより、
してもらったことに目を向ける。

そんな簡単なことが、出来なかった。

与えられること、
愛されることが当たり前。

なら、私はなにを与えられただろう?

私なりの愛を拒絶されたことに
傷ついてきたけれど、
相手が望むような愛をどれだけ
与えられたんだろう?

私は、愛そうとしてきたんだよね。世界を。
やっと、自分の中に愛があることを確信できた。

与えられたものしか、与えられないのなら、
私には、沢山の愛を与えられる可能性がある。

人間としては、全然至らないけれど、
与えられた自分を誇って生きてゆこう。

社会貢献とか、いいことしようと思わないで、
先ずは、沢山の愛を自分に注ごう。

自分を満たさない限り、
相手から求めることは止められないから。

周囲ではなく、自分の在り方に集中しよう。


大切なのは、生き延びること。
次に大切なのは、生きる歓びを知ること。
次に大切なのは、自分を幸せにすること。
次に大切なのは、間違いを認めること。
次に大切なのは、やってもらったことに感謝すること。
次に大切なのは、出来ることを見つけること。

不機嫌な相手に出逢ったら、
相手の機嫌を取ろうとしないこと。

なぜ、そんな相手と出会ったのかを考えてみる。

世界は、私の思う通りにある。
今ある現実は、私の無意識そのものだ。

その視点から、現実を眺めてみる。
理解するのは、相手ではなく、自分。

自分自身を偽る自己欺瞞が、
トラブルとして現れる。

そのくらい達観してみたら、
主観に惑わされずに、
生きられるのかもしれない。

現実がどうあれ、
解釈するのは今の私なのだから。

好きな現実を選んだらいい。

見たくない現実を
見て見ぬふりするのではなく、
見たくない現実の中に、
私自身の欺瞞や真実がある。

痛みの中に、
知恵という宝が隠されている。

偽りの安穏ではなく、
痛みのある真実を生きよう。

ありのままの自分を生きるために。

それが、幸せの一つだから。

自分に愛を注ぎ、
他人のせいにせず、
自己欺瞞を見破り、
本音で生きる。

それが叶えば、
誰かのためになることができるように
なっているかもしれない。

独りよがりではない、
相手が望むことができる自分に。

きっと良心が導いてくれるんじゃないかな。
そうなるといいな。

fumori

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