愛のない人間らしい。

世界は、私の思う通りにある。

思うだけなら簡単。
なのに、思ったところで、
その通りにはなってくれない。

現実を変えることは、難しい。

それって、設定の問題だろうか?

難しいって前提があるから、
現実を変えようとすると大変なのかも?

なら、「現実を変えるのは、簡単」
って事にしてみようか?

そんな思いつきの仮説を実証してみたら、
簡単どころか、酷くベビーな1日になった。

難しいのは、人間関係。

意地悪な人なんていないし、
言い方にカチンと来る事はあるけれど、
私に余裕があるときは、平然と聞き流せる程度。

なのに、
とてつもなく居心地が悪いのだから、
問題は私にあるのだと思う。

楽しく仕事ができたっていい職場でなのに、
それができない。居た堪れない。
どうしても浮いてしまう。

喋っては、うっすら嫌われ、
喋らなくなったら、
もっと嫌われた過去がある。

なんとか喋らなくては…

そんな思いとは裏腹に、
何の話題も浮かばない。

他人に興味がないのだろうか?
なら、他人の態度を気にするはずがない。

この過剰反応を何とかしたい。
同じ悩みがループしている。長いこと。

現実を否定しないと決めた。

けれど、
肯定したくなんかないんだよね。
やっぱり嫌だよ。こんな現実。

それが、本音。
それが、私の現実。

そっか。
これが、リアルな現実。

現実を否定しない。
そう言いながら、
私にとって苦しい現実は、
嫌だし、認めたくない。
そう思っていた。

できることなら、
楽しい現実だけで、人生を満たしたい。

そんな欲があるから、
現実を受け入れたくないんだわ。
私にとっては、都合が悪いから。

現実は、ニュートラル。
いい悪いを判断しているのは、私。

望ましくない現実を作り出しているのは、
私の解釈。

私が偏っているから、
現実がニュートラルではなくなる。

解釈が偏るのは、
私の中に「愛されたかった私」がいるから。

愛されない痛みに心が揺れ動くから、
現実が不安に包まれ、
満たされない思いが募る。
満たされたいという欲求、かな。

愛されない私にとって、
現実は、快適な世界ではない。

愛されたい私は、
愛されることを望みながら、
愛されない理由を探している。
たぶん。

だから、愛そうと思った。
誰も求める愛を与えられないのだから、
私が愛して、幸せにしよう、と。

万事解決。

そう思っていたのに、ダメだった。
なぜか、愛せない。
愛そうと思うのに。
大切にしようと思っているのに、
日常には、彼女を愛する時間はない。

愛されることを願い、
愛されない理由を探しているから?

現実がタイトなのは、
愛されない私がいるから。

愛されない私が
現実を作っているから。

そして、
私には彼女を愛することができない。

愛されることに忙しくて、
愛することに注意を払えない。

それが、私の現実。
現実がタイトな理由。

現実を受け入れられないのは、
愛されたい私が作っている世界だから。

願った通りに、
愛されたいと願う現実を生きている。

愛されたい私がいる限り、
望まない現実しか生きられない。

そして、私には愛されたい私を
満たす事はできない。

つまり、思う通りにある世界とは、
望む世界を生きられるという
ラッキーでハッピーな世界線なんかではなくて、
望まない現実が、私自身の世界という
シニカルな真理を受け入れる事だった。

この不快な世界が、愛されない私の世界。
私の生きる現実。

とてつもなくガッカリ。
幸せになれると思ったのに…

それを、認める。
嫌だけど。屈辱だけれど。

もっと良い現実を生きられると信じていた。
けれど、今の私が作り出せる最高の世界は、
愛されることを望みながら、
叶わない世界。今ある現実。

いいことばかりではない世界へ、ようこそ。
来たくはなかったけどね。

ただ、それ以外にないんだわ。
残念ながら。

願えば、叶うのは、
願い続ける世界。

いつまでたっても、
愛されない世界だけ。

それが、
思う通りにある世界。

望む通りの世界ではなく、
望みながら叶わない世界。

受け入れるしかない。
望まない現実を。

そこが、もう一つの世界。

愛されない私が作り上げた世界が
歪んでいるのなら、
現実を受け入れた世界は、パーフェクト。

現状は同じだけれど、
受け入れると決まっている現実。

望まない現実を、肯定する世界。
愛されない私がいない世界。
偏りのない世界。
あるがままの現実。

なら、そこには、
愛されたかった私はいない。

偏った世界は、渇愛の世界。
求めても、得られない世界。

渇愛している自分を認める。
世界は思う通りにあるけれど、
望む通りにはならないことを知る。

それが、偏りのない世界。

その世界を創っているのは、
愛されない私とは対極の価値観。

愛されていた私。

やっと繋がった。
愛されたかった私以外は、
愛されていたと信じていた。

けれど、愛されていた私は、
区別できる存在ではない。

どんな現実であろうと肯定する限り、
私たちは無条件に愛されている。

思い通りでなくても、
今ある現実を肯定できれば、
その瞬間、愛されていた私になれる。

愛されたかった私を包むくらい大きな存在。
それご、愛されていた私。

理想の世界を思い描くより、
列車が動いている今に感謝する。

それで、いいのかな?

fumori

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