自己肯定感が低い私が、罪悪感に苛まれずに生きるために。
わかっていても、出来ないことがある。
例えば、
自己肯定感を上げると、生き易くなる、とか。
根拠のない自信を持て。
なんて言われても、根拠を求めることに快感を覚える気質だから、こだわりが強くなっているわけですよ。
言い訳するな、とか言いたくなる気持ちは分かる。私だって、こんなに面倒臭い性格は嫌だ。
でも、執着しないと気持ち悪いんだもん。
粘着質は、もはや個性に成り果てた。
変態上等ですよ。
嫌ですけれど…
そんな自己受容のお陰か、自己嫌悪は減ったものの、自己肯定感は上がらないし、ポジティブシンキングは相変わらず性に合わない。
ならば、
ネガティブ路線で、自己肯定感を高めてみよう。
先ずは、ネガティブ変換。
自己肯定感が低いから、生きづらい。
なら、自己肯定感を高めなくても、自己否定を減らせば、相対的に高くなるのでは?
私の場合、自己嫌悪による罪悪感が強くなるとともに、自己肯定感が低くなっていった気がする。
なんの努力もせず、愛されることを当然と思えるくらいに甘やかされてきたもので、アホみたいに自己評価が高かったんですよね。
なので、現実に潰されまくって、どんどん自分が嫌いになり、そのくせ頭の中の自己評価は高いままなので、思考に無茶振りされまくった挙句、無価値観しかなくなった。
頭の中のでは、やれば出来るはずだと思っているから、失敗するとガッカリしてしまうわけです。
やってみようではなく、やれて当然だった。
溜まりに溜まった自己嫌悪と罪悪感がブラックホールと化し、生み出した重力で、天上にあった自己評価を地上に引きずり下ろしたのは、つい最近のこと。
今後は何があっても
自分を責めたりしない。
やっと決められた。
だって、もう必要ないもの。
これまでは有益だったから採用していただけだったんだよね。
自責の念は、人間として当たり前の機能だと思っていたけれど、私が選んでいたものだった。
感情というより、システムだから。
自分を責めることを許していたのは、都合が良かったからなんだよね。私にとって。
今、決めることを先延ばしにできるし、やらなきゃならないことをやらなくて済むし、責任も取らなくて済む。
一石何鳥ものメリットがあった。
けれど、もう、嫌だ。
自分を責めて逃げたって、どこにも行く場所なんてない。結局、責任を取らなきゃならないのは、私なんだもの。よし。
これで、罪悪感からの自己否定は封じられた。
けれど、人の心は変わるもの。
いつ自分を責めたり、罪を背負って、現実逃避を試みるがわからない。
ということで、
罪悪感に苛まれない生き方がしばらくテーマになりそうです。
昨日の言葉に加筆して、考え方の軸にしてみよう。
ありのままの自分ではなく、
あるがままの現実を生きる。
過去を責めない。
過去の自分を裏切らない。
未来に期待しない。
未来の自分を信頼する。
現実は、ギフト。
今を生きるためではなく、
未来のために命を使う。
まあ、言うのはいつも簡単なんですけれど…
fumori