私の心は、寂しさで満たされている。
死にたいと願っているのが心なら、
抱えている感情はなんだろう?
心は感じるだけで、
言葉は思考のはずなのに、
なぜ、心の声が聞こえるのだろう?
なぜ、感じているはずの感情が
わからないのだろう?
願うのは、今、ないもの。
認められたい、愛されたい、赦されたい。
そう願っている時は、
認められていない、
愛されていない、
赦されてはいけない
と、感じていた。
死にたいは、死んではいない。
生きている状態にあるということ。
たとして、生きていることが、
なぜ死にたいに変換されてしまうのだろう?
死にたいと願われたら、
思考は辻褄を合わせるために、
死にたい理由を探してしまう。
自分にとって都合の悪い世界なのだから、
不満の種は事欠かない。
理由を探している間、感情は放置され続ける。
感情は、風。流れ。
感じらことができるのは、その瞬間だけ。
執着するから続いているように感じているだけ。
怒りや悲しみに囚われなければ、
次の瞬間は別の感情で満たされる。
世が無常なら、反応する心も
常に揺れ動くものだから。
なら、死にたいという声は、
生きている状態に対する執着なのだろうか?
認められたいは、認められていないことに、
愛されたいは、愛されていないことに、
赦されたいのは、赦されていないことに、
それぞれ執着しているということ?
それは、ありそう。
ただ、なにを感じては、
執着してしまうのかがわからない。
寂しさは、ある。
疎まれる恐怖も。
認識されなかった、拒絶された感情は、
呪いのように心を侵食する。
寂しさと恐怖。
存在することを疎まれた?
存在することを疎んでいた?
なんでだろう?
根底に根付いている存在否定。
私を否定し続ける存在。
否定されているのは、私。
それは、命のことだろうか?
それとも、自我?
自己否定、存在否定が、
命ではなく、自我を疎み拒絶するものなら、
むしろ、真理なのかもしれない。
自分を否定し続けることは、
自我の存在が幻想であることに気づかせるため?
なんてね。
仮にそうなら、
人は正道に留まる機能があるんじゃないかしら?
我儘に振る舞えば、世界から疎まれ、
自分を責めることで、自我を弱らせる。
自我が強くなりすぎないように
バランスを取っているのかも。
なので、
我儘かどうかを過剰に心配したり、
ネガティブな感情を恐れなくても
いいのかもしれない。
人に嫌われることも。
嫌われる理由があるとしても、
相手が伝えようと思わない限り、
わからないことだから。
言われたら、妥当か考えてみるけれど、
相手が言わないなら、知る必要はない。
関係を求めていないということだから。
関係を求められていないと寂しく感じるけれど、
寂しさの本当の理由は、別。
生きているから、寂しいだけ。
心は、ずっと寂しさで満たされている。
時々、楽しいことや嬉しいことが
寂しさを払拭してくれるけれど、
感情は流れてゆくもの。
消えてしまえば、
満たされている寂しさに気づいてしまう。
だから、怒るのかな。
寂しさを感じると、怒りで誤魔化すのかも。
泣いて悲しむのも、寂しさ。
私の心は、寂しさで満たされている。
それを、消すことはできないのかもしれない。
寂しさ以外の感情を感じていない限り、
ずっと寂しさは満ちている。
結局、寂しさをどうにかするために生きているのかな。
誰かを求めたり、
仕事やお金で補おうとしたり、
お酒やネットに溺れたり。
寂しくならない方法があるなら知りたい。
ないなら、寂しさとともに生きる方法を知りたい。
思考は知りたがり、本能は欲する。
寂しい心は、二つの欲望を繋ぎ合わせる
ツールなのかもしれないを
fumori
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