言えなかった本音で、心が詰まっている。
本音がわからなくなったのは、いつからなんだろう。
幼い頃の辛い記憶を思い出したら、泣けてきた。
ごめんなさい。私が言い過ぎた。
それが、心に詰まっていた本音だった。
なのに、ずっと相手に怒りを抱いていた。
言いたいことがあるなら、言えばいい。
言い返さないなんて、卑怯だ。
そして、今、
上司のパワハラ気味な言葉に腹を立て、
必要最低限の会話しかしない自分がいる。
私が一番傷ついた方法を、
相手にやり返しているのかも。
心に刺さる、一番卑怯な方法を。
過去にされた嫌なことって、
ナチュラルに相手にしてしまうって、
本当なんだな。
心の交流を絶ち、拒絶されることが、
私にとって一番辛いことだった。
私は開けっぴろげだったから、
言いたいことをなんでも言ってしまった。
心を閉ざす苦労を知らなかった。
本音を言えないということが、
こんなにも苦しいとは思わなかった。
きっと、こんな経験を繰り返して、
本音と建前を学び、
内心の自由を確保して成長してゆく
のだろうが、私は失敗した。
私は悪くない。
そう思い込んでいたから。
謝った方がいい。
過去に言い過ぎた時だって、
そう思う自分もいたはずなんだよね。
それができないから、
いや、したくないから、相手のせいにした。
私が悪くても、謝りたくなかったのね。
昔のジャイアンだわ。
そして、今の私は、
現実を優先することにした。
相手の言葉は、
コンプライアンスに反しているし、
訴えればパワハラ認定されるだろう。
とは言え、
彼がいなくなれば、仕事は成り立たないし、
彼がいる限りは、彼が王様。
そもそも、口も聞きたくないくらい嫌なら、
その場で辞めればよかったんだよね。
社会人として私の態度もなってなかったし…
なんて殊勝にも頭を下げたのだけれど、
むしろ拒絶感が出てしまった。
相手のことが、気持ち悪くなってしまった。
それまでは、言い方こそ失礼だけれど、
仕事もできるし、フォローもしてくれるし、
人間的には尊敬もしていた、と思う。
今では、もう、確実に嫌いだ。
自分でもそこが不思議だった。
心が思考に屈したことに逆上しているみたい。
心の判断を無視したから、
相手を嫌うという反動が出たのかな?
なら、相手にではなく、
怒りは私の選択だろうか?
納得して頭を下げたつもりだったけれど、
ほぼ打算だったのかな。うん。そうかも。
過去の私は、
言い過ぎたのに、謝れなかった。
今回は、
言われ過ぎたのに、私が謝った。
ということはさ、
私は謝って欲しかったんだ。
言い過ぎた過去の相手の方から。
その方が都合がいいから。
私は悪くないまま、
相手を許すことができるから。
本当は私が悪かったのに、
それを認めず済むから。
うわ。腹黒。
だから、今回、謝ったんだ。
悪くもないのに。
言い掛かりなのに。
過去の私がして欲しかったことを、
相手にしていただけなんだ。
だから、許せるはずがないんだ。
今回は、悪くないもん。
仕事できないから、
モヤモヤたまってただろうけど、
失敗したわけでもないのに、
あれはない!!
だから、謝ったものの、
気持ち悪くなってしまった。
悪意に屈した私の怒り。
私の良心かな?
私が謝りたかったのは、
過去に言い過ぎた相手であって、
相手の暴言を許したところで、
帳消しにはならない。
当たり前だけど、
あんな理不尽を許そうとしたのは、
過去の自分を正当化したいからか。
狡いな。私。
相手の狡さではなく、過去の私の狡さを
赦して欲しかったのかも。
本音は、巧妙に隠され、
なかったことにされている。
自分は悪くない。
存在が希薄な自我は、
善なる自分以外を認められない。
善なる自分が言えない本音は、
誰かのせいにされ、自分を蔑めることで、
表に出ないようにされてきた。
未だに怖いもの。
言ってはいけない言葉で
溢れている心を開くのが。
たぶん、怯えている自我が
いるだけなのだけれど。
独りぼっちで、愛されたいと
願っているのだろう。
それが、私の恐怖の種なのかな。
彼女の恐れや不安を通して、
現実を認識しているから、
ちょっとしたことで落ち込んだり、
腹が立ったり、気分が変わりやすいのかな。
私では、自我を守って
あげられないということかな?
信用されていない?
信頼できない。
まぁ、打算で動くからね。
打算で守られているから、
ギリ安心していられるのかな。
自我に守られた愛されたかった心。
愛されない不安と恐怖で満たされている。
愛されたかった私は、怯えている。
この世界が、とにかく怖い。
愛してもらえない世界では、
生きてゆけないのかな?
だから、他者に愛を求めている。
そのために、良い人のフリをする。
そして、疲れ果てている。
彼女が愛してもらいたいのは、私なのにね。
愛されるために、
ダメな自分を封印してきた。
他者に愛されるためには、
自分を殺すしかないから。
他者に愛されるためには、
他者の世界のルールに
従わなくてはならない。
母には母のルールがあり、
私にはルールがなかった。
私のルールは、
母にとっては、
わがままだだったから。
子供って大変。親もか。
子育てって、ルールの違う人間を
育てなきゃならないことなのか。
母、ごめん。
そして、大人になった今も、
私は他者のルールに
取り入ろうとしている。
愛されるために。
丸ごと愛されることなんて、ないのにね。
共通しているルールの範囲内を、
愛せばいいだけなのに。
いくら私がオリジナリティに溢れていても、
どこかしら共通しているルールはあるだろうに。
愛されない私は、私が愛そう。
他者の世界に愛されるために
ジャッジされ、禁じられてきた
ダメな自分を解放しよう。
私の世界において、
私は丸ごと愛されている。
ダメな自分なんかいない。
どんな私でも、
私の世界にいる限りは、自由だ。
あなたたちは、全力で愛されています。
私が愛します。
他者の世界で愛されなくても、
怖がらなくていいですよ。
私の心に留まる限り、
あなたたちは等しく満遍なく
もれなく愛されています。
善悪や正誤、快不快、優劣。
相対的な価値観によって
左右に割り振られた2人とも、
愛の視座からは愛されているので、
安心してください。
どっちも正しいし、
どっちも間違いです。
なにを選んでもいいんです。本当は。
他者の世界を壊さない。
それだけが、ルールな気がします。
そして、私はそのルールを
壊し続けてきたのです。
愛されたいために。
他者のルールを取り入れて、
ルールを犯す自分を閉じ込め、
ここまでしたのだから愛してよ
と、要求していたのかな。
押し付けがましく。
なので、心を愛にしてしまえばいい。
他者にではなく、自分に向ける愛で満たす。
ベクトルを内に向けておけば、
他者の世界に干渉することはないだろう。
頼まれてもいないのに、
愛を振りまく必要もないし。
全部の自分を赦せるなら、
愛は溢れるものだと思うから。