自我と命の願いが一致する場所。
アセンションという言葉を知ってから、数年が経つ。
グレートコンジャンクションがなんなのかも
わからないまま、興奮していた気がする。
実害なく、費用もかからず、
この世界から逃げ出せるなら、
なんでもよかったのだと思う。
そして、現在に至る。
多少、変化はあったものの、
次元上昇とは程遠い日常を送っている。
期待したような素晴らしい現実
ではないけれど、
意識のあり方は変わったように思う。
苦しみばかりの自我しかなかった。
自我なんて亡霊みたいなもの。
知識として理解していても、納得できなかった。
自我を失ったら、どうなるのか?
私でなくなることを想像するだけで、怖かった。
未だに、怖がりだし、
自己主張の強い自我は、健在です。
どっぶり現実感に浸かって、生きてます。
ただ、その自我に対して、
なんとも思わなくなりつつある。
人から嫌われたことのある自我を、
恐れる気持ちは消えないし、
性格がいいとは言えないそれを
好きにはなれないと思う。
そんな最低な人間性こそが、本性であること。
それを、人に知られることが、怖かった。
人に知られて、また、嫌われることが。
なので、出さないように気をつけている。
一方で、いつ出てきてもおかしくないとも思っている。
消えることはない。いなくはならない。
私自身の一面を否定することは、
私の長所とともに、人間であること
そのものを否定することになるから。
我欲に囚われた汚い本性があるからこそ、
その対極に高い精神性を生み出せる。
心から願う理想を知るためには、
真逆の現実を生きる必要がある。
人柄がいい人は、そんな苦労しないだろうけれど、
痛い目をみないとわからない私には、必要だったのだ。
と、なんとかそう思い込むことにして、
自分以外の人生を諦めた。
他人の幸福を羨ましいと思ったところで、
私以外、生きられないし、
私が求める幸せは、私を幸せにはしてこなかった。
自我が求める幸せは、幸せそうな他人の人生。
不幸の埋め合わせであり、私の幸せじゃない。
なので、私の幸せに期待しなくなった。
不幸せじゃなければ、上々。
なんとなく気分がいいなら、上出来。
現実は変わらないけれど、
人格を拒絶しないでいられるようになった分、
生きづらさは薄まった気がする。
幸せになるために求めていたアレコレは、
拒絶されていた自我の悲しみを埋めるためのもの。
いないものとされた自我のスペースを埋めるためのもの。
そんな自作自演の不幸を
放置できるようになっただけでも、
ずいぶん楽になれた。
幸せいっぱいではなくとも、
不幸せとは言い難い。
さて、これは、アセンションなのでしょうか?
望みさえすれば次々と叶ってゆく現実を生きられる。
期待していたアセンションは、
そんな現実創造を伴う変化だった気がする。
なので、
現実を生きやすくなったとしても、
アセンションしたとは言えない気がする。
そもそもアセンションが、
現実に起こるかどうかさえわからないのだが。
ただ、
アセンションという概念を
意識して過ごしたこの数年間には、
人生を変える価値があったと思うのです。
アセンションが真実かどうかより、
何を意識して、どこを目指すかで、
人生は変わってゆくのかもしれない。
正解じゃなくても、
高すぎる理想でも、
夢でも、妄想でも、
なんの根拠がない思い込みでも、
ネガティブな可能性でも、
意識したものによって、
未来に誘われてゆくとしたら、
願えば叶う未来にだって、
辿り着くのかも知れない。
誰も幸せにしない自我の願望ではなく、
命が歓ぶような、よりよい未来に繋がる願いを
抱けるようになれたら、次々と叶ってゆくのかな。
今は、まだ、一時的なハッピーしか
願えないのかも知れない。
結果、不幸せになる願いばかりに
心惹かれてしまうのかもしれない。
結局、私が願っているのは、
豊かな現実というより、人間性なのかな。
願いが叶う現実より、
よりよい未来を願える自分になること。
結局は、自分なのね。
でも、そんな自分の利益が、
この世界の利益にもなること。
自分の命が、
この世界の命のためになる場所。
探しているのは、そんな都合のいい交点。
そんな未来に誘われることを、願っている。
fumori