
運気によって現実が変わるのではなく、現実の受け取り方が変わるタイミングを運気と呼んでいるのかもしれない。
ずっと、自分の感情が恐ろしかった。
いとも簡単に制御不能になるから。
怒り狂い、泣き叫び、物に当たる。
疲れ果てる以外に、
感情の収め方がわからなかった。
成長するにつれ、
感情を抑え込めるようにはなったけれど、
その分、ネガティブな情念を抱え込むことになった。
呪いのような重たい心をなんとかしようと、
現実の認識を変えようとしてきた。
認識できる範囲が現実なら、
ポジティブに傾きやすい価値観や信念を設定すれば、
ネガティブな情動を避けやすくなる。
必然、心も軽くなる。そう思っていた。
けれど、もしかしたら、
そもそもの初期設定が
間違っていないのかもしれない。
現実を認識することと、
感情が生み出されることは、
別の働きなのかもしれない。
感情は、現実への認識から生み出されるもの。
そう思い込んでいたけれど、
現実と感情のパターンに規則性はない。
同じ頼まれごとでも、
許せない程、腹が立つこともあれば、
機嫌良く流せることもある。
快く引き受ける事だってあれば、
頼まれていないのにお節介をやいたりもする。
なんで、あの現実から、その行動を選んだのか?
説明できない事だらけだ。
わかっているのは、
私の機嫌が良くて、余裕があって、
相手に好意を抱いていたら、
快く引き受けるってことぐらい。
理屈じゃない、としか言えないです。
完全にアニマルな発想です。
エコ贔屓です。
そんな理屈の通じない自分に苛立っていたのですが、
ふと、思ったのです。
そもそも、そこが間違っているのではないか?
現実と感情に関連性ってあるのだろうか?
現実を認識している思考と、理屈の通じない感情。
相容れないそれらの辻褄を合わせようとしてきたけれど、
合わせる必要もなく、そもそも合わないものなのでは?
完全に別系統の働きだとしたら?
現実に喚起され、感情が生み出される。
ではなく、
そもそも感情という動きがあって、
その理由を今、起きている事象と
結びつけているのが思考。
だとしたら、辻褄が合うんですよね。
なら、感情とはなんなのか?
たぶん、ただの動き。流れ。
この世界は、対極の価値観から成り立っているので、
感情もネガティブとポジティブに別れ、
それぞれが快不快と結びついている。
けれど、人としての認識を離れれば、
どちらもただの心の動きだ。
人の感性では、
ネガティブや不快は嫌だし、避けたいし、
ポジティブや快は、より多く得たいと思うもの。
けれど、それは表裏一体の価値観。
巡っているから、比較して味わえる感情。
得たい、避けたいという欲が結び付かなければ、
快も不快も等しくただ流れゆくもの。巡るもの。
感情に色はなく、
色をつけているのは欲。
であるけれど、
欲から切り離されたら、
人としては生きられない。
人である限り離れられないものが、
欲で色づけられた感情で、
その感情に合わせて、現実を認識する。
現実の事象から感情が生まれるのではなく、
巡っている感情の位置が、認識を決める。
表のタイミングなら、陽気に現実を捉え、
裏のタイミングなら、ネガティブに受け取る。
感情が運気みたいに巡るものだとすれば、
運気によって現実が変わるのではなく、
現実の受け取り方が変わるタイミングを
運気と呼んでいるのかもしれない。
もちろん、なんの確証もないですし、
現実逃避のための思いつきかもしれません。
ですが、
現実が感情を生み出すという発想より、
感情が先にあって、それに相応しい現実を
認識しようと必死に辻褄を合わせようとしている健気な思考
という組み合わせが、私にはしっくり来るのです。
思考は、愚かな暴君だけれど、
いつも必死に私のために働いています。
なのに、巡りとかタイミングとか
運気とか感情には及ばないのです。
思考は、いつだって二番手。
王様にはなれないんですよね。
宰相という立場に納得して、
感情という王様をサポートしてくれるなら
これ以上、心強い味方はいないのに、
なぜか王様を裏で操りたいという権力欲に駆られてしまう。
賢くなりたいって欲が、弱点なのかな。
でも、脳が物質でえる以上、君は命には勝てないよ。
動き続けることで、時を刻み、命を生み出すもの。
それが、感情の正体かもしれないから。
命を生み出す感情と、
時の概念を知る思考。
仲良く生きていって欲しいものです。
fumori