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相手のことを考えてるのに、自己中心的な認識しかできなくて、自分勝手になっている。

八つ当たりをしてしまった。

言わずにおこうとした不平不満を、
最後の最後に口にして、
嫌な空気を醸してしまった。

我が身の堪え性のなさを嘆いたり、
悪いことをしたと申し訳なさで凹んだり、
逆に仕方なかったと自分を慰めてみたり、
そりゃ、もう、大忙しでしたよ。

それにしても、
あれだけ我慢しようとしたのに、
言えばああなるって分かりきっていたのに、
なぜ、我慢できなかったのか?

たぶん、それが、本音だったから。

我慢したくない。
我慢する必要なんかない。

そんな思いに気づいて、驚いた。

相手は何一つ悪くない。

ただ、相手を想って、
自分の希望を譲ったことは事実。

幾つも私の希望を叶えて
もらっているのだから、
妥協するのは仕方がない。
むしろ、当然のこと。

そう思って、決断したくせに、
とてつもない後悔が押し寄せて、
飲み込んだはずの不満が逆流して、
大爆発に至ったのでした。

結局、吐き出したのは、
「わがままを言ってはいけない」
という過去だったように思う。


私は、わがままで自分勝手だから、
自分の希望ばかり言ってはいけない。

そんな自己像を生きてきたけれど、
それって、
あなたの希望を叶えない私は、
わがままな人にカテゴライズされますよ!
という宣言に過ぎないのでは?

あなたの中での、私の評価が
「わがまま」なのであって、
私=わがまま、は成立してない?

なら、私の希望を伝えることは、
あなた以外の人にとっては、
わがままにはならないのかも?

なのに、
私=わがままな、なら
私の希望=わがまま、である
という謎の理論を構築していた。

なんだ、言えばよかったんだ。
妥協する前に、私はこうしたいって。

我慢しなくて、よかったんだ。
我慢するようのことじゃなかったんだ。

言った後、妥協を選ぶにせよ、
口にする前から諦めて、納得した。

我慢できなかったのは、その態度。
そのスタンス。

自己完結の挙句に、八つ当たり…

よかれと思って選んだことは、
相手を無視した自己満足でした。

ごめんなさい。

そういうところかな。

相手のことを考えているのに、
自己中心的な認識しかできないから、
自分勝手になってしまう。

相手のことを慮っても、自分勝手。
そりゃストレス溜まるよね。

考えてないで、言えばいいだけなのだが、
たぶん、それが言えてないのだろう。


「わがまま」と言われた時の私は、
たぶん、本当にわがままだったと思う。

甘えきっていたから。
私の希望を叶えてくれると期待していたから。

だからこその、
「わがまま言うんじゃありません」
だったと思う。

けれど、当時の私には、
「これ以上言うなら、あなたのことを嫌いになります」
ってことになっていた。

「だったら、私も嫌いになります!」
と、応戦していた気がする。

話にならなかっただろうね。
育てにくい子供で、ごめんよ。

未だに対話が苦手なのは、
わがままと自己表現の境界線がわからないから。

それは、「私=わがまま」という自己認識があり、
わがままはよくない、という価値観があるから。

自己表現は自由だけれど、わがままは、ダメ。

けれど、「私=わがまま」という
セルフイメージそのものが勘違いだったとしたら、
そもそも境界線なんかない。

全ての言動は、自己表現。
対話することは、わがままではない。

相手を想って、自己完結する方が、
自分勝手なことなのかもしれない。

想いは、伝える。以上。

とは言え、
無限の自由は、内心だけ。

思ったとしても、
自分が言われて嫌なことは、言わない。

あと、助力の期待を込めた願望は、
わがままな気がする。

助けを求めたり、
応じたりするのは自由なんだけど、
断る選択肢のない頼みとかね。
圧のある相談とか。

我慢することなく、想いを伝えて、
気軽に対話できたらいいな。

fumori


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